裏第十七話 意識の共有
朝起きて、お仕事に行って、夜帰って来て、寝る。もしくは主婦だったら、家族の食事の世話をして、お洗濯をして、お掃除をして、寝る。毎日毎日、おんなじことの繰り返しです。
偉い俳人の大先生方は、口を開けば「感動」「感動」と言いますが、普通の毎日を普通に生きていて、そんな日常の中に、感動することなんかあるのでしょうか?
日常に感動が無いからこそ、映画やテレビドラマなどの「作られた感動」や、プロ野球やサッカーなどの「他力本願な感動」に人々が群がるのです。 去年のワールドカップで、それまではサッカーのサの字も口にしたことのないような人達が、こぞってニワカサッカーファンになり、おそろいのブルーのユニフォームを着て、街中でハタ迷惑な大騒ぎしていたことを思い出します。いつもは平気で道路にゴミを捨てたり、自分の思い通りにならないと短絡的に人を殴るような自分勝手な若者達が、急に日本の代表みたいな顔をし始め、サッカーなんかに興味のなかったあたしは、そいつらから非国民呼ばわりされました(笑)
そいつらは今、どうしているのでしょうか? また次なる他力本願な感動を求めて、道路にゴミを捨てながら、街を彷徨っているのでしょうか?
最近、あたしが感動したのは、ロッテの「パイの実」のパイナップル味と「ヌーブラ」です。パイの実のパイナップル味は、夏だけの期間限定で、もともとのチョコ味も美味しいけれど、このパイナップル味の美味しさには感動しました。たった2センチほどの厚みの中に、62層ものパイ生地が重なり、そしてほど良い甘さと酸味のパイナップルクリーム。この二つが折り成す世界は、まさに二物衝撃!
特に、冷蔵庫で冷やすと美味しさ倍増で、キットカットのパイナップル味、コアラのマーチのピーチヨーグルト味などにガッガリさせられたあたしにとって、この夏のお菓子の救世主となったのです。
あたしは、この感動を誰かに伝えたくて、お友達に電話しまくりました。そして、パイの実を食べたお友達から、「感動した!」と言うお返事がたくさん届き、歓びを共有したのです。
そして、そのパイの実の何倍も感動したのが「ヌーブラ」です。ヌーブラとは、巷で話題の新型のブラジャーです。ストラップなどのないカップだけのブラで、シリコンでできていて、直接バストに貼りつけて使います。
春先から仕事場でモデルさん達が使い始め、その評判を聞いて欲しくてたまらなかったのですが、1万2千円と言う高額のため、ずっとガマンしていました。それを先日、数量限定のネットオークションで競り落とし、何とか手に入れることができたのです。
実際に自分が使ってみると、その素晴らしさは評判以上で、本当に感動してしまいました。ここは俳句のサイトなので詳しいことまでは書きませんが、今までのブラの全ての欠点を解消し、さらに何倍も素晴らしく、24時間つけていても全く疲れないどころか、快適なのです。まさしく、21世紀のブラジャー革命!(笑)
あたしは、この感動を誰かに伝えたくて、お友達に電話しまくりました。そして、ヌーブラを手に入れたお友達から、「感動した!」と言うお返事がたくさん届き、その歓びを共有したのです。
この「共有意識」こそが俳句の目的であり、それは歓びだけでなく、悲しみや切なさでも同じなのです。自分勝手なニワカサッカーファン達のその場だけの共有意識などとは違い、俳句の持つ本物の共有意識は、時空を超えて感動を伝えます。300年前の芭蕉の想いや100年前の子規の感動が、句を読んだ瞬間に目の前に現れるのです。
対象の本質よりも外見的な美しさを重要視し、常に他人の目にどう映るのかと言うことばかり気にしていた水原秋桜子などは、本当は感動なんかしてないクセに感動したフリ、本当は何でもないことなのに大げさな虚飾による嘘の美を追求しました。つまり、彼は俳句ではなく、十七音の映画や季語を使ったテレビドラマを作っていたのです。こんな作られた感動などに涙するのは、ニワカサッカーファンくらいでしょう。
本当の感動など知らない秋桜子ですから、「(俳句は)いちばん感動するところまでじっと待って、作ったほうがいい。」なんて言うトンチンカンなことを平気で口にできるのです。感動は、常に目の前にあるのです。気づかないのは、感性が鈍いからなのです。
さて、あたしは冒頭で、「おんなじことの繰り返しの日常生活に、感動などない」と言うようなことを書きましたが、これは本心ではありません。これは、俳句や、俳句に代わる何かとまだ出会っていない、毎日の生活に疲れて感動に飢えているOLや主婦の気持ちを代弁したものです。
客観写生を実践していれば、日常生活は小さな発見や気づきに満ち溢れており、大きな感動はなくとも、毎日がキラキラと輝いているのです。それは、庭の梅の木に小さな実がついたことや、水槽のメダカが卵を産んだことなど、全ては季節からの贈り物なのです。
そう言った小さな発見や気づきに感動し、季節への挨拶として俳句を作った素十、それを評価した虚子、そして、それを「草の芽俳句」とさげすみ、虚飾への道を選んだ秋桜子‥‥。
俳句は人それぞれであり、秋桜子のような嘘で塗り固めたウサン臭い一大スペクタクル大感動俳句であろうと、類想類句を量産するだけの時代遅れの縄文式俳句であろうと、自分が良いと思えば、それを実践すれば良いのです。
あたしにとっての俳句とは、ただの滝を大げさに轟かせて虚飾の群青世界を作り出し、他人に感動を強要するような非日常的なものではありません。パイの実のパイナップル味やヌーブラに感動し、それをお友達に伝えたいと思う気持ち、これがあたしの俳句です。
客観写生の目で見れば、毎日が小さな発見や気づきの連続です。
俳句とは、感動を始めとする意識を「共有する文芸」であり、本当の共有を目指すのであれば、大げさな表現など全く必要ありません。
見たものをそのまま詠む、と言う客観写生を積み重ねて行くことが、共有への一番の近道なのです。