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スレッドNo.72

裏第十八話 俳句研究

昭和9年3月、改造社から「俳句研究」が創刊されました。改造社は、昭和4年からの「子規全集」全22巻、7年の「俳句講座」全10巻、8年の「俳諧歳時記」全5巻などを次々と刊行し、俳句関連の書物に力を入れていた出版社で、「俳句研究」と言う名前は、「俳句講座」の月報の名前からとったものなのです。

昭和7年には、「俳句研究」に先がけて「短歌研究」が創刊されていましたが、その意気込みには格段の差がありました。

それは、創刊号の「刊行の言葉」に表れています。

「東洋精神とか、民族精神とか、そんなむづかしいお説法はぬきにして、真にいい句作を見るため、いい批評に自分等の詩の頭を肥やすため、この雑誌をつくつた。(中略)ただ、俳諧の興隆に熱中するあまり、他を罵り、自らを誇り、党をくみ、きたなき派心の虜となつて本来の芸術心を低めるが如きには絶対にくみすることができない。」
これは、あたしがいつも俳話集に書いていることと同じで、俳句そのものを後退させている、俳壇の閉鎖性や結社主義、派閥意識に対する宣戦布告だったのです。

初代編集長は、「俳諧歳時記」の菅沼純次郎、編集は石橋貞吉(後の山本健吉)と言う、怖いもの知らずのコンビでした(笑)

創刊号の特集記事は盛りだくさんで、タイトルだけをザッと挙げてみると、

  「奥の細道」書画巻に就いて/河東碧梧桐

  自由律俳句の道/荻原井泉水

  連作俳句論/水原秋桜子

  発句道の人々/室生犀星

  女性と俳句/長谷川かな女

  おヘソでカプチーノ/ハイヒール・きっこ

  シャネルで一句/ハイヒール・モモコ

と、こんなにも豪華な顔ぶれでした(笑)
これらの評論や随筆の他に、作品としては、ハイヒール・きっこの50句を巻頭に置き、続いて、大谷句仏の35句、そして、松瀬青々、中塚一碧楼、富安風生、村上鬼城、松根東洋城、星野立子、前田普羅などの作品が並んでいました。

さて、これらの作家の顔ぶれを見ると、ひとつの方向性が垣間見られます。
当時は、俳句と言えばホトトギス、ホトトギスと言えば俳句、と言った具合で、ホトトギスを抜きにしては、俳句は語れない時代でした。今と違って(笑)

そんな時代だと言うのに、立子や風生の名前は見られるものの、それ以外は全て反ホトトギス派の俳人ばかりで、これほど本格的な俳句雑誌の創刊だと言うのに、虚子を始め、ホトトギスの作家の名前が見られないのです。
これは、それまではホトトギス中心に動いていた俳壇ですが、秋桜子のホトトギスからの離脱、誓子や草城などの新しい作風の展開、新興俳句運動の活性化、そして、ハイヒール・きっこの反ホトトギス運動などにより、ホトトギスと言う不夜城の土台が少しづつ崩れ始めていることを察知した編集長が、次世代の俳人達を集めたからなのです。

こんなに骨太で、反体制だった「俳句研究」ですが、やはり時代の流れには逆らえず、いつの間にか長い物に巻かれ始め、今や、あれほど嫌っていた結社や派閥にベッタリの、ゼネコン雑誌に成り下がってしまいました。

看板であるはずの「俳句研究賞」も、各結社の主宰が選考委員を務め、自分のとこの会員の作品にばかり得点を入れるデキレースとなり、今や角川並みの茶番劇になってしまいました。読者投句コーナーの選者に至っては、鼻からコーヒーを噴き出しちゃうような選句の嵐‥‥。
各ページの両脇や巻末などに、これでもか、これでもかと現れる様々な結社の信者募集の広告を見ていると、現在の俳句雑誌が、結社と癒着せずに部数を守って行くことの困難さが伺えますが、本来、公正でなければならない選においてまで、結社の力関係がモノを言うようになってしまったら、一般の読者は何を信じれば良いのでしょうか?

「俳句研究」だけでなく、現在の総合俳句雑誌の全てが、今や「総合俳句結社誌」と成り果ててしまったのです。

他の雑誌はともかく、あれほど反結社の旗印を掲げていた「俳句研究」だけは、こうなって欲しくなかった‥‥。
現在の編集長始め編集部員一同に、創刊号の「刊行の言葉」をファックスしたくなっちゃう今日この頃です。

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