裏第二十一話 増殖する左脳俳人
人間の大脳は、右脳と左脳に分けられますが、それぞれに機能が分担されています。右脳は、音楽や図形などに関するイメージ機能をつかさどり、感覚的、直感的、具体的なアナログシステムです。そして左脳は、計算や分析などに関する言語機能をつかさどり、観念的、理論的、抽象的なデジタルシステムです。
日常生活では、右脳と左脳を適度にバランス良く機能させていますが、どちらかの脳だけをフル回転させる場合もあります。
例えば、デザイナーが図案を考えている時は、芸術的な右脳の活動が極めて活発になります。そして、出来上がったデザインを持ってクライアントのところへ行き、プレゼンテーションする時には、今度は理論的な左脳が大活躍するのです。
このように人間の思考システムは、その時の状況によって、右脳と左脳をうまく使い分けているのです。
しかしそれは、意識して切り替えられるものではなく、自動的に状況に対応しているのです。
俳句は詩、つまり芸術でありながら、五七五の定型に収めたり、季語と描写のバランスを考えたりと、パズルのような数学的要素を多分に含んでいます。そのため、右脳の機能を中心として作る音楽や絵画と違い、右脳も左脳も同じように機能させて、初めて一句が生まれるのです。つまり、俳句と言う定型短詩は、他の創作活動とは、少し異質なものと考えられます。
この、左右の脳を使う特殊な創作活動には、長所と短所があります。
良く「俳人は長生きする」とか「俳句はボケ防止に良い」とか言われていますが、これは右脳も左脳も平均して使う俳句を続けていれば当たり前のことであり、80代、90代の俳人たちの頭の回転の速さ、切り替えの速さ、適応力などは、どれをとっても素晴らしいものがあります。
しかし、他の創作と違い、観念的、理論的、抽象的な左脳も活躍する俳句の創作では、ちょっと器用な人なら、右脳を使わずに、左脳だけで俳句を作ることが可能なのです。これは、他の創作活動では考えられないことであり、これが左右の脳で創作する詩の持つ短所なのです。
俳句の創作は、両方の脳を使うと言っても、対象を見て、感じて、頭の中にイメージを描くと言う一番大切なことは、他の創作と同様に右脳を使います。そして、そのイメージを十七音にまとめる段階で、左脳を使うのです。
しかし、器用な俳人は、本来は右脳の仕事である「頭の中にイメージを描く」と言う部分までも左脳に任せているのです。つまり、何も見ず、何も感じていないのに、器用に左脳を使い、まるで見たような、感じたような虚のイメージを頭の中に描き、そしてそれをまたまた左脳によって、十七音にまとめるのです。
こう言った「左脳俳人」は、初心者から結社の主宰、月刊俳句誌の選者に至るまで、呆れるほどたくさんいます。しかし、一番多いのが、俳句を始めて数年の俳人たちなのです。それは、左脳俳句ばかり作っていると、最長でも10年くらいで、自分の続けて来た自慰行為に虚しさを感じ始め、やっと客観写生に目覚めるからです。とは言え、筋金入りの自慰野朗は、結社の主宰になっても、まだ左脳の中で右手をシコシコと動かしてますけど(笑)
世の中には、器用な人と不器用な人がいます。それは、手先の細かい作業であったり、初めての場所に順応する能力であったり、様々な方面に及んでいます。そしてもちろん、俳句の世界にも、器用な人と不器用な人がいます。
器用な人の多くは、自分が器用であると言うことを分かっていて、一歩間違えると、「自分は他人よりも優れている」なんて思ってる人もいるのです。
そう言う自信過剰の左脳俳人たちは、他人からの評価をとても気にしています。ですから、俳句に興味を持ち、俳句の結社に入ったりすると、とても熱心に勉強します。しかしそれは、俳句の技術的なことや、どうしたら主宰に評価されるか、と言った、俳句の本質から外れたことばかりなので、結社内では短期間で評価されるようになりますが、あたしに言わせれば、まだ俳句の階段の一段目にも足が掛かっていないのです。
左脳だけで俳句を作る器用な左脳俳人たちは、あまり長い期間ひとつの結社に在籍せず、たいていは数年で辞めてしまいます。それは、自分では色々とモットモらしい理由を述べますが、ようするに俳句の本質から外れたレールを進んでいるために、結社での創作に限界を感じてしまうからなのです。
そして、自分の方法論に疑問など持たない自信家の左脳俳人は、同じ左脳俳人たちと、左脳だけで俳句を作る座を作ります。
左脳俳人たちのスゴイところは、吟行に行っても左脳で俳句を作るのです。目の前に対象があっても、それを見て感じる過程において、それらの視覚的、聴覚的な情報は、カンジンの右脳を素通りし、左脳へと流れます。そして、「高得点を取るためには」「人をアッと言わせる言い回し」などのフィルターを通り、せっかくの一期一会の現実風景が、虚の左脳俳句へと変換されてしまうのです。
左脳俳人にとっては、目の前にある風景や植物も、ただの記号でしかありません。「ただ、そこに、それが、あった」と言う記号として捉え、その情報はデジタル化され、左脳へと送られます。ですから、吟行に行っても歩くのが速く、一ヶ所に長時間立ち止まることはありません。
左脳俳人の多くは、山頭火や放哉が好きです。有季定型俳句を実践しながらも、無季や自由律にも造詣が深く、客観写生をどこかで小バカにしています。
しかし、頭の良い彼らは、正面から客観写生を否定して、むやみに敵を増やすようなことはしませんし、それどころか、お得意の左脳をフル回転させて、山口青邨のように見て来たようなウソの写生句を器用に作ります。また、有季定型の句会にワザと自由律気味の句を投句して、座の様子をうかがってみたりもします。
これも、観念的で理屈好きの左脳俳人ならではの、子供じみた楽しみのひとつなのです。
左脳俳人は、普通の俳人よりも何倍も器用だし、語彙も豊富だし、頭の回転も速いのです。だって、それが彼らの武器ですから。
だから、何も見ずにポンポンと面白い俳句を作ることができるのです。
ネットでも、左脳俳人の集まるサイトは、面白い句がたくさんあり、似たような句ばかりの写生句のサイトなどよりも、覗き見すると楽しめます。
普通の生活をしていたら、数年に一度くらいしか出会わないような珍しい出来事が、左脳俳句の世界では、連日起こっているのです。
ですから、どんなにキチンと作られていてもリアリティが感じられず、どんなに立派に見えても軽薄で、ようするに「お~いお茶」の俳句ごっこに毛が生えたような俳句モドキばかりで、とうてい詩と呼べるシロモノではありません。
それは、俳句の本質、詩の本質が全く分かっていないからであり、彼らの俳句に対するスタンスは、アニメヲタクが実際の恋愛の代償行為として美少女フィギアを溺愛するのと同じレベルなのです。
しかし、加速度的に衰退して行く俳句界の中で、唯一増殖し続けているのが、清水哲男さんの「増殖する俳句歳時記」と、俳句の本質から外れた左脳俳人たちだけなのです。何度も言うように、左脳俳人たちはとても器用なので、様々な姿に化け、色々な場所に潜んでいます。
世を忍ぶ仮の姿として客観写生を提唱する結社に所属し、左脳をフル回転させて、行ったこともない場所や見たこともない花の句を作ったりしている左脳俳人もたくさんいます。
俳句には「実」も「虚」もありますから、左脳だけで虚の句を作ることが悪いことだとは思いません。しかし、「実」の世界があるからこそ「虚」の世界もあるわけで、虚の句だけを作り続ける、つまり、バーチャルリアリティーの世界に身を置き続けると言うことは、ただの現実逃避であり、所詮は自慰行為なのです。
あたしが客観写生を提唱し続けているのは、ひとりでも多くの俳人が、左右の脳をバランス良く使った健全な俳句の道へと進んで欲しいからなのです。
衣食住や音楽、絵画などの世界だけでなく、俳句の世界にまで左脳俳人と言うセイヨウタンポポが増殖し始めた昨今ですが、あたしは、いつまでもヤマトタンポポでありたいと思います。
《恒例のおまけコーナー(笑)》
左脳俳人の作った写生句と、左右の脳をバランス良く使って作った本物の写生句を比べてみたければ、現在発売中の「俳句あるふぁ」6・7月号の29ページを参照して下さい(笑)
図書館註:2003年(平成15年)6月7月号の『俳句αあるふぁ』の29頁を掲載。ルビは原文のまま。俳句七句に短い吟行の様子が付いているが、作品のみ全句掲載で最小限どこで詠まれたかのみ付記。
雲南(うんなん) 中原道夫
耕して天を降り来るところかな
春逝かぬ国なり天蚕糸(てぐす)垂らしをり
嶺々(ねね)斑雪(はだら)酸素買ふとは思はざり
西蔵(チベツト)はすぐそこ雪嶺阻(はば)めども
茎立(くくたち)やあくがれ出づる都はも
バスガイド麗日よどみなくつかふ
碩学(せきがく)や田螺(たにし)に顎(あぎと)遣はるる
中国雲南省は麗江(れいこう)・大理(だいり)標高二千米の海外吟行。
斑雪山(はだらやま) 辻桃子
斑雪山種屋の前でバス待つて
笹起きて鳥見るための椅子一つ
雪解や鶫(つぐみ)の胸の白と黒
ゆかるみをゆく白鳥のところまで
貝焼の火を点け小さく風起こる
不器男忌は今日であつたか小雪飛ぶ
またもとの椿の下で別れけり
三月十日、南津軽。