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スレッドNo.76

裏第二十二話 「もの俳句」と「こと俳句」

それなりに名前の残っている俳人は、その作品だけでなく、それなりの俳論を残しています。まあ、たいていは自分の先生のウケウリだったり、自分も実践できてないことを偉そうに書いてみたりって感じで、その俳人の作品と俳論を並べて見てみると、ガクッと来ちゃうことが多いんだけど、中には、ちゃんと自分の理論を実践している俳人もいます。そう言った俳人の俳論は、一応はスジが通っているので、目を通しておくべきでしょう。

とは言っても、俳句を始めたばかりの人たちには、どれが本物の俳論で、どれが実践のともなわない偽者の俳論か分からないと思うので、俳壇のチャーリーズ・エンジェル、きっこが、ビルの上から爆風でふっ飛ばされながら、解説しちゃいましょう♪(笑)

とゆーワケで、今回の俳話は、そこそこタメになる秋元不死男の「もの説」について、サクサクッと書いてみたいと思います。
秋元不死男と言えば、俳話「不死の男」でも紹介したように、「天才バカボン」の赤塚不二夫、「ドラえもん」の藤子不二雄とともに、「文学界の三大フジオ」と呼ばれています。

ちなみに「日本の三大祭り」と言えば、青森のねぷた、博多どんたく、そして、ヤマザキ春のパン祭りですが、あたしは今年もシールを25点集めて、白いお皿をもらいました♪

さて、毎度おなじみのクダラナイ前置きで、頭の準備運動が済んだと思うので、そろそろ本題に入りたいと思います。

不死男の「もの説」とは、「俳句」誌の昭和29年9月号に発表された6ページほどの俳論で、その主軸となるものは、冒頭の文章を引用すると、「俳句は、ものに執着しないと崩れてしまう」と言う考え方です。
この「もの」と相対するのが「こと」であり、不死男は、俳句と言う短詩型においては、「こと」、つまり「ことがら」を詠むのではなく、そこに存在する「もの」自体を詠まなければならない、と言っているのです。

その理念を実証する分かりやすい例として、不死男は次の自句を挙げて説明しています。

  少年工学帽かむりクリスマス 不死男

時代背景の違う現代の人たちには、何のことだかサッパリ分からないと思うので、簡単に句意を説明しましょう。

当時は、学費が払えずに学校を辞め、働きに行かなければならない子供たちがたくさんいたらしいのです。そして、この少年も、家が貧乏なために、学業が続けられず、工場に働きに行くことになりました。

しかし、道行く人たちにはそれを悟られたくなくて、学校に通っているフリをするために、学帽をかぶって工場に通っていたのです。現代よりも貧富の差が激しく表れる「クリスマス」と言う季語が、そんな少年の姿をより一層感慨深いものにしています。

この句は、初めは次の形でした。

  少年工学帽古(ふ)りしクリスマス

この句を師の西東三鬼に見せに行ったところ、風邪をひいて寝ていた三鬼は、水枕からガバリと起き上がり、こう言いました。

『学帽を「古りし」などと言ったら、学帽をかぶっているのか、手に持っているのか、壁に掛けてあるのか、読み手には全く分からない。「古りし」などと言う「ことがら」を詠んで自分の思いを伝えるのではなく、そこに何が見えたのか、その「見えたもの」をそのまま詠めばいいのだ!なのだったら、なのなのだ!』
そして不死男は、目からウロコとソフトコンタクトが落ちてしまったのです。

実際に、その少年の学帽はボロボロだったのかも知れません。しかし、その学帽の古さを言葉にすると言うことは、その少年に対する作者の必要以上の思い入れであり、つまりは読み手に対して、作者の主観を押し付けることになってしまうのです。

そしてそれが、結果として、状況を湾曲して伝えることにもなってしまうのです。

作者の目に映った「もの」、それは、ただ「学帽をかぶって工場へ通う少年」であり、その学帽が「古びている」と言うことは、その「もの」にまつわる「こと」なのです。

この一例から不死男は、短詩型において「こと」で概念を説明していたら、時間ばかりかかってしまい俳句の形が崩れてしまう、一瞬を切り取る俳句では「もの」に執着せざるをえない、と言う「もの説」を導き出したのです。
そして、その「もの説」を原稿用紙に書く時に使ったのは、もちろんトンボ鉛筆の「モノ」なのです(笑)

不死男が、この「もの説」に辿り着いた背景には、若い頃から思い入れの強い主観的な句ばかりを作り、さらには「読み手を感動させよう」などと言う水原秋桜子バリのスケベ根性があったため、平畑静塔に「秋元不死男の俳句は舞台を演出して作っている」と批判されたことが挙げられます。

まあ、不死男の場合は、秋桜子と違い、早い時期に自分の方法論の間違いに気づき、サッサと軌道修正したので、良い作品をたくさん残せたし、とても良かったと思います。

左脳を使って想像で作る俳句は、「何がどうしてどうなった」と理屈に流れやすく、つまりは「ことがら」を詠んだ「こと俳句」になりがちです。また、目の前の対象を見て作る写生句でも、主観や観念のフィルターを通して写生していれば、偏った観察眼による「ことがら」が発生し、作者の思い入れに味付けされた「こと俳句」になってしまうのです。これらの「こと俳句」は、作者の観念が邪魔をするため、読み手がイメージ化しにくく、句意すら伝わらない場合もあります。

それに比べ、目の前の「もの」を客観的にそのまま切り取る「もの俳句」は、読み手にも景がハッキリと見え、ゆるぎないリアリティーを持ち、そして、季語や描写の中の「もの」などが、ちゃんと作者の思いを伝えてくれるのです。

「もの俳句」を読んでも何も伝わって来ないと言う人は、残念ですが、まだまだ俳句を読む力、つまりは作る力も足りないと言うことなのです。

  三月やモナリザを売る石畳 不死男

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