裏第二十四話 七名八体
俳句とは、もともと連句から発生したものなので、随所に連句の流れをくんでいます。それは、季語や切れ字などの作句上の決め事だけでなく、俳句を作る「座」と言うスタイルにも受け継がれています。
俳句が他の詩型と違い、詠み手と読み手がいないと成り立たないと言われているのは、つまりは「座の文芸」だからであり、それは、詩型のスタイル以上に連句の流れをくんでいる部分なのです。
しかし、座のメンバーが心をひとつにして一巻の歌仙を巻いて行く連句の共同作業と違い、俳句の座は、隣の席の俳人がライバルだったりします。月例句会ともなれば、周りは全員敵ばかり、と思っている気の毒な俳人もいるほどです。
と言うワケで、今回の俳話は、「現代俳句の座」と言うものについて、チャーリーズ・エンジェルきっこが、今日もフルスロットルで書いて行きたいと思います。
連句の座では、皆で協力して大きなパッチワークを作るように一巻の歌仙を巻いて行くので、同じ色や似たような柄の生地が並ばないように、常に心がけなくてはなりません。連句で一番重要なことは、なるべく前の句から転じ、どんどん新しい世界へと変化して行くこと、つまり、Like a rolling stone! 常に転がり続けよ! と言うことが命題となります。
連句を知らない人のために簡単に説明しておきますが、連句、つまり歌仙を巻く座では、参加者の出した句を「捌(さば)き」と呼ばれる審判役の人が選び、575、77、575、77と、次々につなげて行きます。連句のルールにのっとり、前の句から転じた句を参加者が短冊に書き、テーブルの真ん中にどんどん出して行き、その中で一番良いものを捌き役の人が選ぶのです。選ばれる句は、もちろん1句だけなので、テーブルの上の残りの句は、全部捨てられます。
そして、その次の句へと進んで行きます。
俳句の座で、この連句の句作に一番近い状況と言えば、席題を出された題詠の即吟でしょう。座に集まったメンバーが、同じ題で、その場で句を作り、そして選者が甲乙をつけるのです。
しかし、ここに、連句と俳句の決定的な違いがあるのです。連句は、出来上がった一巻の歌仙が参加者全員の作品となるわけですから、例えばある場所で自分の句が選ばれなくとも、悔しく感じたりすることはありません。それどころか、別のメンバーが自分よりも何倍も素晴らしい句を作り、捌きがその句を選べば、その歌仙自体の作品としての質が上がるので、自分も嬉しいのです。
俳句の場合は全く反対で、他の参加者が素晴らしい句を作り、それが選者の目に止まれば、「ヤラレたっ!」と思うでしょう。
そして、もう一点、座における違いがあります。それは、選句です。
俳句の場合は、もちろん選者の好みや感性にもある程度は左右されますが、基本的には、優秀な句が選ばれます。これは、俳句に限らず、他の世界でも同じことでしょう。
しかし、連句の場合は、必ずしも優秀な句が選ばれるわけではありません。連句では、一句一句は、まだ作品ではありません。一巻の歌仙が出来上がり、初めて作品となるのです。
前の句やその前の句との兼ね合い、バランス、それまでの流れなどを考えて、捌きが次の句を選んで行きます。ですから、どんなに素晴らしい句があったとしても、その句が選ばれるとは限りません。
発句から挙句まで、全てナンバーワンの句を選んで行ったら、起伏のない、息の詰まった歌仙になってしまいます。やわらかい句があるから強い句が引き立ち、俗語の句があるから古語を使った句を雅やかに感じるのです。
ですから、常に全力で自分らしい句を作っていればいい俳句の座と違って、連句の座では、それまでの流れを読みつつ、時には50%の力で作句したり、自分のスタイルと違う句を作ったりと、俳句の何倍ものフレキシブルな創作能力が必要となります。そうでなければ、どんどん前の句から発想を転じて、新しい世界へと進んで行くことなどできないのです。
この、連句の付け合いを次々と転じて行くためのポイントを、「七名八体(しちみょうはってい)」と言って、連句の座では、参加メンバーはもちろん、メンバーの膝の上で眠っている猫でも知っているほどの常識です。
「七名」と言うのは、句の構想の立て方のポイントで、有心、向付、起情、会釈、拍子、色立、遁句の七つから成り立っています。また「八体」と言うのは、七名に基づいて実際に句を作る方法で、其人、其場、時節、時分、天相、時宜、観相、面影の八つで構成されています。
連句の座では、この七名八体をベースにして、捌きと言う水先案内人を先頭に、参加者全員が力を合わせ、歌仙と言う海を渡って行くのです。
この七名八体をひとつひとつ説明してたら、それだけで俳話が終わってしまうのでトットと先に進みますが、俳人のあなたは、ここまでの話から、「連句って大変そう!俳句にしといて良かった!」ぐらいのことを学べば良いでしょう(笑)
さて、あたしは最初に、「連句は自分の句が選ばれなくても、悔しくはない」と書きましたが、実は、必ずしもそうではありません。もちろん、一巻の歌仙として素晴らしい作品を完成させることが大前提ですが、やっぱり人間ですから、自分の句が選ばれるに越したことはありません。
連句は連歌をルーツとしていますが、連歌の座の基本は、「風雅を基調とした連帯感」でした。
しかし、雲の上の貴族たちのお遊びである連歌に、中指を立てて、ツバを吐き、庶民の娯楽へと引きづり降ろしたものが俳諧、つまり連句ですから、使う言葉だけでなく、その座のあり方にも「通俗」が見られるようになって来ます。それが、メンバー同士での付け句の優劣の競い合いなのです。
「皆で力を合わせ、一巻の歌仙として良い作品を完成させる」と言う概念は、詩型のスタイルから生まれる必然と言うだけではなく、古く連歌の流れを引いたスピリチュアルな部分でもあるのです。
その反面、各個人が自分の句を選んでもらおうと競い合う、通俗的な精神は、そのまま俳句へと流れて行ったのです。
つまり、より良い付け句を作るために考えられた「七名八体」は、視点を変えて見れば、座のメンバー同士が競い合うために生まれた方法論であり、風雅が通俗へと変化して行く過程での副産物だったのです。結論として、「座」のあり方として捉えた場合には、風雅の極みであった連歌の座から、風雅を残しつつも「七名八体」と言う通俗が介入して来た連句の座、そして、人と競い合うことを主軸とした、通俗の極みである俳句の座へと変化して来たのです。
芭蕉は「風雅の誠」を唱え、芭蕉以降の俳人たちもそれぞれにご立派なことを口にして来て、現在では、「趣味は俳句です」なんて言うと「ほほう!」なんて感心されちゃう世の中になったけど、その俳句が、「他人と競い合う」と言う、風雅とはほど遠い、通俗の極みの座で作られてるなんて、当の俳人本人も気づいてなかったりして!(笑)
俳句のルーツは、貴族たちの連歌に中指を立てた俳諧なわけだし、その俳諧の通俗性をさらに突出させたものが俳句なんだから、その俳句が生まれる座が通俗の極みであることは、当たり前のことなのです。ですから、嘘や嫉妬が渦巻く句会と言う座に通い、二枚舌の主宰のもと、自分の通俗性を極めて行けば、現代俳句と呼ばれている虚の世界へと行き着くことができるのです。
あたしは、芭蕉を師だと思っているし、作句の基本を「不易流行」と定めているので、そんな結社はトットと辞めちゃったけど(笑)