裏第二十八話 見てから作る
俳句にハマればハマるほど、俳人は、俳句のことを考えている時間が長くなって行きます。俳句をやらない人と普通の会話している時でも、相手のセリフの中に俳句のネタになりそうな単語やフレーズが出てくれば、その瞬間に頭の中のメモ帳にキープしちゃったりします。テレビを見ていても、本を読んでいても、俳句に使えそうな物や言葉を発見したとたん、そのネタをキープしちゃうようになります。見ていたテレビや本をそこで中断し、そのまま作句に突入しちゃうツワモノどもが夢の跡‥‥じゃなくて、そんなツワモノどももいます(笑)
俳句を始めるまでは、何も気にもしないで歩いていた通勤や通学の道。でも、俳句を始めてからは、人の家の庭を覗いてみたり、ノラネコに声を掛けてみたり、道端の雑草の前にしゃがんでみたりと、まるで子供の道草のように、やたらと色々なものが気になり始めます。
どこかに出かけても、何かをしていても、色々なものに興味を持ってしまいます。
今までは、好きなものや関心のあることにしか目が向かなかったクセに、俳句を始めてからは、嫌いだったものや関心のなかったことにまで興味が湧いて来て、やたらとキョロキョロしちゃいます。
もちろん、これは良いことです。俳句を作ることに貪欲になり、様々なものに対して子供のような好奇心を持つことは、とても素晴らしいことです。
芭蕉が「俳諧は三尺(さんぜき)の童にさせよ」と言ったのも、子供のような好奇心を持ち、子供のような純粋な目で見るべし、と言うことなのです。
しかし、客観写生を提唱している俳人のほとんどが、残念なことに、コレを勘違いしているのです。
多くの俳人たちは、「俳句を作るためにモノを見ている」のです。
ようするに、対象を見ながら「俳句のネタ探し」をしているのです。
何かの目的のために対象を見るのであれば、いくら「子供のような好奇心」を持って見ようとも、その目は「子供のような純粋な目」ではなくなります。
例えば、夏の夜、蝉の羽化を目撃したとします。純粋な子供の目であれば、その神秘的な光景をただじっと見つめるだけでしょう。そして、子供の心は自然と一体化して、「自然の声」を聞くことができるのです。
しかし、常に「俳句のネタ探し」をしている俳人は、これは素晴らしいネタに出会ったと思い、「俳句を作るため」に脳みそをフル回転させながら、その光景を見つめます。ですから、蝉の羽化が終わるまで、頭の中には様々な言葉が次々と現れ、それらの言葉を組み合わせたり並べ替えたりと大忙し。これでは、「自然の声」など聞こえて来るはずがありません。
吟行会などでも、ほとんどの俳人は、「俳句のネタ探し」をしながらキョロキョロと歩き、これは!と思うものを見つけると、「何とかこのネタで一句モノにしよう!」となってしまいます。
投句数や投句時間に追われ、頭の中は雑念だらけ。「俳句を作る」と言う目的のために、脳みそは季語や単語やフレーズなどでパンパンなってしまい、カンジンの「自然の声」など聞こえるワケがありません。
本人は客観写生したつもりになっていますが、対象の声を聞かず、本質を写し取ることができていないのですから、テレビの画面で同じ光景を見て作句しているのと何も変わりません。
ほとんどの俳人は、こんなレベルの写生しかしていません。それは、結社誌や総合誌に発表される毎月の類想句の山を見れば一目瞭然です。
その句が写生句だと言うための大義名分を作るために、わざわざ現場まで足を運んでいるだけで、あたしに言わせれば、交通費や時間をムダにしているだけなのです。
雑念を捨て、目で見るだけではなく五感のすべてを研ぎすます。そして、対象を通して自然の声が聞こえて来るまで、静かに感じ続ける。
これが、客観写生を行なう上での「モノの見方」です。
とても難しそうに感じるかも知れませんが、あるコツさえ掴めば、ワリと簡単にできるようになります。
そのコツと言うのが、「見てから作る」と言うことなのです。
冒頭に書いたように、俳人と言うものは、何でもすぐに俳句のネタとして考えてしまいます。少し作句力がついて来ると、何も感じていないのに、見たものや聞いたことをネタに、ポンポンと句ができるようになって来ます。
ですから、吟行などで写生をする時でも、対象をネタのひとつとして見てしまい、自然の声が聞こえて来る前に、対象を見ながらサッサと作句してしまうのです。
俳句を作るためにモノを見ていたら、いつまで経っても本当の客観写生などできません。蝉の羽化を目撃した時に、この光景を何とか俳句に収めよう、何とか上手に十七音で表現しよう、と思いながら見続けていても、その気持ち自体が雑念となり、蝉の羽化の表面的な部分しか切り取ることができないのです。
俳句を作ろうと思うのは、見終わってからで良いのです。対象を見ている間は、俳句のことは頭から消し、子供のような純粋な目にならなくてはいけません。
それが、「見ながら作る」ことをやめ、「見てから作る」と言うことなのです。