裏第二十九話 表記と言う技法
インターネットで俳句を作ったり読んだりする上で、一番困ることが、パソコンは「横書き」だと言うことです。
俳句には、季語や定型などのいくつかのルールがありますが、そのうちのひとつとして「表記上のルール」があります。それは、「俳句は縦書きで、升目を空けずに一行で書く」と言うことです。
サザンが夏の季語でユーミンが冬の季語だとかヌカして、「おーいお茶」みたいなシロモノを平然と横書きして、それで俳句を作ったつもりになってるどっかの俳句ごっこのB面結社。シンナー中毒の中学生の歯みたいに隙間だらけで、クロスワードパズルと見間違えそうな「分かち書き」とかを無理強いし、桂信子にも見捨てられちゃった、大阪の森重久弥によく似た主宰の結社。
これらは、自由律や無季と同じように、俳句のルールに反しているのですから、当然のことながら俳句とは呼べません。
新聞記事や書類、レポートなどの文章は、「読み手に内容を正しく伝える」と言うことが何よりも優先されます。ですから、現代においては、縦書き、横書きはどうでも良く、そして、新仮名を使い、当用漢字を使い、漢字に変換できる言葉は、特別な場合を除き、基本的には全て漢字で表記しています。例えば、「あおいそら」と書く場合は、必ず「青い空」と表記するはずです。
しかし、俳句は「詩」なのです。それも、たった十七音しかない世界最短の定型詩なのです。ですから、縦書きか横書きか、漢字か平仮名か、旧仮名か新仮名か、などの表記の違いが、作品のイメージを大きく変えてしまいます。
俳句が詩である以上、内容を正しく伝えることも重要ですが、それと同時に「作者の感じたイメージを伝える」と言うことが大切になって来ます。
そのために、季語や切れ字、省略やオノマトペなど、作者は色々な技法を使い、17音と言う定型の枠を少しでも広げる努力をしているのです。
それらの技法の中で、季語の斡旋や切れ字の使い方などに比べ、格段に軽く扱われているのが、今回の俳話で取り上げた「表記上の技法」なのです。
俳句で「青い空」と書く場合は、新聞記事などと同じように、そのまま「青い空」と表記する他にも、「蒼い空」「蒼い宙」、または平仮名で「あおいそら」「あをいそら」、漢字と平仮名を組み合わせて「蒼いそら」など、複数の表記の仕方があり、どの表記を選ぶかによって、読み手に与える青空のイメージが変わって来るのです。
どの表記を使用するかは作者のセンスによって決まり、自分の見た、感じた青空のイメージに一番近い表記を選ぶわけです。
そして、自分のイメージに近いものが読み手に伝われば、表記の選択が正しかったことになります。
もちろん、どんなに完璧な表記を選んだところで、カンジンの俳句そのものが良くなければ、あまり意味の無いことなのかも知れません。しかし、自分の想いを伝えるために、作品を磨いて磨いて磨き抜く作業が推敲なのですから、内容だけでなく、表記にも細心の注意を払い、もっともっと時間をかけるべきなのです。
俳句の推敲は、経験や技術だけでなく、作者のセンスが物を言う世界です。そして、季語の斡旋と同じくらいのセンスが問われるのが、「表記」における技法なのです。
大きな結社誌の同人欄などを見ると、何十年も俳句をやっているのに、表記のセンスの悪い俳人がやたらと目につきます。
例えば、「途切れ途切れ」を「途切れとぎれ」、「流れ流れて」を「流れながれて」と、バカのひとつ覚えみたいに書いてる人たちがいますが、こんなものあたしに言わせれば、「○○の如く」と同じくらいにカビ臭い技法です。
たぶん、脳に青カビの生えた時代遅れの主宰が、「同じ言葉を繰り返す場合は、あとの言葉を平仮名にすると、表現に立体感が生まれます。」とか何とか無責任な指導をして、良く分からないままに言われた通りにしているのでしょう。
今どき、「漢字と平仮名のリフレイン」や「○○の如く」なんて俳句、前方後円墳の中を掘ったって出てきやしません。
さて、インターネットの問題に話を戻しましょう。なぜ、横書きだと困るかと言う問題です。
例えば、「木」「山」など、書き出したらキリがありませんが、左右対称の漢字があります。
トメやハネなど、厳密に言えば対称ではありませんが、これらの漢字は、毛筆で書いた場合、シンメトリー(左右対称)による独特の美しさを生み出します。また、これらの漢字があるからこそ、その他のアシンメトリー(左右非対称)の漢字や平仮名の美しさも引き立つのです。
しかし、これらはすべて、縦書きによって初めて感じることができるものなのです。
短冊に一句を縦書きして、短冊の真ん中に上から下まで一本の線を引いてみます。その線を軸にすると、「木」や「山」などの文字が左右対称になるでしょう。
しかし、横書きにした場合は、中心線は左から右へと走るため、「木」や「山」などの文字は上下に二分割され、シンメトリーは生まれないのです。
あたしは、俳句にとって、表記の生み出す視覚的な効果をとても重要視しています。
そのために、しりとり俳句をしていても、作った句を頭の中で一度縦書きにして、全体の姿を見てから、漢字にするか平仮名にするか、複数の漢字表記がある場合は、どの漢字を使うか、と考えます。
また、ネット句会などで選句する場合も、一句一句、いちいち頭の中で縦書きの姿をイメージして、そして鑑賞しなければならないため、とても時間が掛かるのです。
でもこれは、困ると言っても、ただ自分が大変なだけで、時間を惜しまなければ良いことです。本当に困るのは、あたしの句を読む側の人たちが、果たして縦書きに置き換えて読んでくれているのか、と言うことなのです。
場合によっては、横書きなら平仮名のほうが良いけれど、縦書きにしたら、漢字で表記したほうが美しく、そして想いも伝わる句もあるのです。
いくらあたしが、縦書きを想定して表記の選択に時間をかけても、カンジンの読み手が横書きとしてしか読んでくれなければ、全く意味がないどころか、逆効果になる場合もあるわけです。
先日、多摩川に鮎釣りを見に行った時の句をまとめ、WEB句集に「鮎の川」として発表しました。そして、色々な感想をいただきました。
最後に、その中で一番嬉しかった感想を転載して、今回の俳話を終わりたいと思います。
三伏の川面に紅を塗りなほす きっこ
飯田龍太「一月の川一月の谷の中」は一の寂しさでもあるわけですが、きっこさんの三と川は縦書きにした場合この二字がビミョーに響きあっています。紅を塗り直す気分は残念ながらわからないのですが、酷暑にこそ紅赤が際立つことでしょう。