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スレッドNo.84

裏第三十話  蕉門十哲+1

松尾芭蕉の結社(笑)である「蕉門」の俳人、ようするに門弟は、公称2000人と言われています。しかし、実際には、430人余りしかいませんでした。それも、現代と違って交通の便が悪かったため、地方には、死ぬまで一度も芭蕉と会えずじまいだった門弟たちもたくさんいたのです。ですから、芭蕉から直々に指導を受けられた本当の門弟の数は、さらに少なくなり、一説には数十人だったと言われています。

現代の俳句結社、特に中堅結社も、実際には200人くらいしか会員がいないのに、公の場には300人とか500人とか発表して見栄を張っています。そんなインチキ、結社誌の雑詠欄の人数を見れば一目瞭然なのに、「投句をしない購読のみの会員が多いのです」なんてバレバレの嘘をつく始末。結社の主宰が外ヅラばかり気にするのは、芭蕉の時代からの伝統なのでしょうか?(笑)
芭蕉って、300年も経った今だからこそ、俳聖だとか何だとか、まるで悟りを開いたスゴイ人みたいに言われてるけど、所詮はタダの遊び人です。

仕事もしないで皆からお金や食べ物をもらい、住むとこまで提供させ、毎日俳句を作ったり旅行をしたりして遊んでたワケですから。

芭蕉の時代は、俳諧と言えば道楽の極みで、商人の奥さんなどは、ダンナに、「アナタ!毎晩飲みに行っても女遊びしてもいいから、お願いだから俳諧にだけは手を出さないでちょうだいね!」なんて言ってたくらいなのです。つまり、現代の「酒、女、ギャンブル」が、この時代には「酒、女、俳諧」だったワケです。

奥さんたちが必死になって止めるほど、俳諧と言う遊びは底無し沼で、一度足を踏み入れたが最後、一生懸命に稼いだお金をどんどん主宰に貢ぎ、そのうち仕事なんかホッポリ出しちゃいます。
挙句の果てに家庭まで捨て、主宰のために人生を捧げてしまう人たちが続出したのです。

つまり、捨てられた家族たちにしてみれば、芭蕉と言うのは、大切な一家の大黒柱を俳諧と言う堕落の道へと引きずり込んだ悪の権化で、金を吸い取るだけ吸い取り、金が無くなれば身の回りの世話をさせたりと、まるで新興宗教の教祖みたいな存在だったのです。

まあ、芭蕉の場合は、そう言ったことが許される時代背景があったワケですが、現代社会において、芭蕉と同じように仕事もせずに俳句だけで生活してるような主宰は、完全に新興宗教の教祖と同じで、俳句の実力よりも、どれだけ会員を洗脳できるかと言う口先の技術がモノを言っているのです。

遊び人の芭蕉は、現代の主宰たちと同じに、とても外ヅラを気にする見栄っぱりでした。それで、自分の門弟の数をいつも気にしていました。
そして、自分の門弟たちをピラミッド型に並べ、その頂点に自分が君臨していると言うことを遊び感覚で楽しんでいました。

その遊びのひとつとして、芭蕉の俳諧番付と言うものがあります。全国の門弟たちを東と西に分け、二つのピラミッドを作り、その両方のさらに上のお山の大将が自分である、と言う番付遊びです。杉風を東三十三ヶ国の俳諧奉行、去来を西三十三ヶ国の俳諧奉行として、その下に順列をつけて門弟たちを配し、その図を見てゲラゲラと大笑いした芭蕉。まるで、青っ鼻を垂らしたガキ大将です。そして、そのピラミッドの中で少しでも上に行きたくて、芭蕉にお金や物をプレゼントしまくる門弟たち。

う~ん、素晴らしい低俗性! さすが、俗の文芸! これぞ、俳句! あんたの結社と同じじゃん!(笑)

芭蕉がタダの「をぢさん」なら、門弟たちだってタダの「あんちやん」です。
色々な文献などに、其角だ嵐雪だなどと名前が出て来ると、勝手に作り上げたイメージだけで、何だか偉そうでスゴそうな人たちだと思っていませんか?

これから、門弟たちの本当の姿を紹介しますので、「な~んだ!そこらのあんちゃんたちと一緒じゃん!」てな感じで、もっともっと親近感を感じて欲しいと思います。なんたって、俳句は通俗の極みを目指した庶民の文芸なんですから♪

芭蕉が江戸へ出て来た延宝の初期に弟子になったのは、其角、嵐雪、杉風、桃隣、嵐蘭などで、貞享に入ると、去来、杜国、越人、曾良、路通などが弟子になり、そして元禄になって入門した、惟然、北枝、支考、野坡、凡兆、丈草などが有名な門弟たちです。

のちに、活躍した弟子を10人挙げて「蕉門十哲」と言うようになりましたが、そのメンバーは、選ぶ人によって少し違って来ます。

蕪村があげているのは、其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良、野坡、越人の10人ですが、他の人は、越人の代わりに杉風を選んだり、野坡を外して越人と杉風を入れたりしている人もいます。

結局のところ、其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良と言う不動の8人と、野坡、越人、杉風と言う3人の補欠からなる11人を蕉門を代表する門弟と考えれば良いでしょう。

この11人と、芭蕉に一番嫌われていた路通を入れた12人をこれから紹介して行きます。年代も書いておきますので、芭蕉(1644~1694)と照らし合わせながら読んで下さい。

◆宝井其角(たからいきかく) 1661~1707◆

江戸生まれで、14才の時に芭蕉に入門した最古参の門弟です。何よりも酒と女を愛した豪快な遊び人でした。
連日のように潰れるまで大酒を飲み、ゲロを吐き、遊女のところをハシゴしたツワモノ。「酒、女、俳諧」と言う、この時代に「人生を棒に振る」と言われていた遊びをすべてやり尽くした道楽者です。

  大酒に起てものうき袷かな 其角

  暁の反吐は隣かほとゝぎす 其角

などの句を読み、その自堕落な生活態度も含め、去来からは「華やかなること其角に及ばす」とイヤミを言われたほどです。それでも芭蕉からは、その俗な人間臭さを評価され、一番かわいがられていました。

門弟一の快楽主義者で、芭蕉の没後はサッサと談林風に戻り、享楽的な句ばかり作り、洒落風と言う下品で低俗を売り物にした江戸座一派の元祖となります。芭蕉にしてみれば、かわいがった弟子がこのありさまじゃあ、これがホントのキカク倒れ?(笑)

◆服部嵐雪(はっとりらんせつ) 1654~1707◆

江戸に生まれ、30年近く武家奉公をしていましたが、元禄3年(1690)に武士を辞め、俳諧師へと転身します。俳諧へ身を移してからは、それまでの厳しい生活からの反動からか、ソッコーで其角の遊び仲間となり、連日一緒に飲み歩き、一緒に遊廓に通い、快楽の世界へと現実逃避を繰り返します。女好きは其角以上で、遊女や湯女(ゆな)を次々と妻にしちゃいます。現代で言えば、遊女は本番アリのソープ嬢、湯女は本番ナシの風俗嬢ってとこ。しかし、芭蕉からは、「門人に其角、嵐雪あり。」と評されるほどかわいがられ、大切な門弟の双璧とされていました。あたしから見ると、「嵐雪」って言うより「乱摂」って感じだけど(笑)

でも、俳句は門弟の中ではトップクラスでした。

  うめ一輪一りんほどのあたゝかさ 嵐雪

この句のように、だらしない生活ぶりとはウラハラに、シャープで洗練された句を詠み、対象を切り取るセンスの良さは蕉門一です。芭蕉の没後も、嵐雪の雪門は後々まで続いて行きました。

◆向井去来(むかいきょらい) 1651~1704◆

長崎に生まれ、8才の時に京都へと引っ越し、その後、公家に仕えていましたが、すべてを捨て、芭蕉の門人となった人です。天文学、暦学に精通し、武芸にも長け、文字通りの文武両道のスーパー俳人。其角や嵐雪とは正反対に、とてもストイックで、女遊びも一切せず、志も高く、本当に立派な人ですが、それが欠点でもあります。タバコが大嫌いで、今では当たり前の嫌煙権を300年以上も前に主張し、句会では、絶対にタバコを吸う人の隣りには座りませんでした。まるで、結社「K」の「N・Tさん」や、結社「O」の「K・Hさん」みたいです(笑)
去来は、嵯峨に落柿舎と言う別荘を持っていて、時々芭蕉を招いたりもしていました。
凡兆とともに「猿蓑」の編者に抜擢されたほど人間性を買われていて、「去来抄」などの執筆でも知られています。師を思う気持ちは杉風以上で、終生芭蕉に尽くし、芭蕉の臨終の時もずっとそばを離れませんでした。
誰よりも芭蕉を尊敬していたので、良いか悪いかは別として、その作風も芭蕉に酷似しています。

  湖の水まさりけり五月雨 去来

◆内藤丈草(ないとうじょうそう) 1662~1704◆

尾張(愛知)生れで、犬山の武士の家を継ぐはずだったけれど、出家して琵琶湖のほとりに小さな庵を構えます。
幼い頃に母が死に、継母は7人も子供を産んだため、8人兄弟のうち自分だけ仲間はずれで育ちます。
丈草は「白粥の僧正」と呼ばれるほど病弱、そして貧困で、その生涯も43年と短いものでした。作る俳句も作者そのもので、継母や異母兄弟に対する感情や病気、貧困などを詠ったものが目立ちます。

  着てたてば夜のふすまもなかりけり 丈草

「ふすま」と言うのは襖ではなく、パジャマのことです。ようするに、たった一枚の服しかなく、寝ても起きても着たきり雀ってことです。

芭蕉の没後も、ノミやシラミと闘いながら、清貧な生活を送ります。

◆各務支考(かがみしこう) 1665~1731◆

美濃(岐阜)に生まれ、19才までは僧侶を志して大智寺で修行しました。しかし、禅による悟りに限界を感じ、乞食僧となって諸国を行脚します。この間に学んだ文字、能文、漢籍、神学、儒学などの技術や知識が、のちに芭蕉の門弟となってからは大いに重宝がられます。
屁理屈に関しては門弟一で、頭の回転も早いが調子も良く、芭蕉の身の回りの世話をして取り入ろうとしますが、結局はその人間性を見抜かれ、最後まで信頼されませんでした。
自分を死んだことにして生前葬をあげ、そのあと別名で本を出してみたりと、まるで保険金サギみたいなこともしちゃいます。

芭蕉が病床についてからは口八丁手八丁で根回しに走りまわり、作戦通りに、芭蕉の遺書の代筆と言う大役を任されます。そして、芭蕉の没後は、達筆にモノを言わせて芭蕉の偽書を作ったり、詭弁で人を騙したりして、美濃派のドンとなる変わり身の早さ。門弟一の腹黒男です。

  あふむくもうつむくもさびしゆりの花 支考

この句なども、その人間性を知ってから読むと、何だかウサン臭さがプンプンです(笑)

◆立花北枝(たちばなほくし) ?~1718◆

加賀百万石の城下町、金沢で刀の研ぎ屋さんをやっていた人です。「おくのほそ道」の道中の芭蕉と出会い、兄と一緒にその場で門弟になり、そのまま福井の松岡まで同行しちゃった行動派です。のちに北陸蕉門の重鎮となります。

  さゞん花に茶をはなれたる茶人哉 北枝

  しぐれねば又松風の只おかず 北枝

などの句を見れば分かるように、良く言えばテクニシャン、悪く言えば技巧派‥‥って、同じ意味かも?(笑)

◆森川許六(もりかわきょりく) 1656~1715◆

近江の彦根藩の藩士で、「猿蓑」などの選集を読み、コツコツと独学で蕉風を学んだ勉強家です。実際に門弟となったのは、芭蕉の最晩年の元禄5年です。絵画に関しては素晴らしい知識と才能を持っていたので、芭蕉も許六を師と仰いでいました。
ですから、芭蕉と許六は、師弟関係というよりも、良き芸術的理解者として、相互に尊敬し合っていたのです。

  うの花に芦毛の馬の夜明哉 許六

この句のように、詩にも絵心がうかがえます。

◆河合曾良(かわいそら) 1649~1710◆

信州の上諏訪の出身で、伊勢長嶋藩に仕えていましたが、のちに浪人となって江戸に上ります。貞亨早期に入門した江戸蕉門の古参の一人です。「鹿島紀行」にも同行しましたが、何と言っても「おくのほそ道」の同行が有名でしょう。深川芭蕉庵の近くに住んで、芭蕉のパシリとして活躍し、とても重宝がられます。調子に乗った芭蕉は、5尺ほど先にある紙や筆を取るのにも、曾良をアゴで使いました。

曾良は、地誌や神道などにも詳しく、実は江戸幕府の御庭番(スパイ)だったと言う説もあります。

  よもすがら秋風きくや裏の山 曾良

こんな句を見ると、ナニゲにスパイっぽい怪しさを感じます(笑)
芭蕉が忍者だったなんて言うトンデモナイ説もあるくらいだから、案外ホントかも?

◆志太野坡(しだやば) 1662~1740◆

越前(福井)出身の両替商三井越後屋の番頭です。今で言えば、三井住友銀行福井支店の支店長ってとこです。
現代の俳壇も、金子兜太に代表されるように、ケッコー銀行関係の俳人が多いのですが、来る日も来る日も金勘定ばかりしていると、浮世離れしたくなっちゃうのでしょうか?

でも、結局は野坡も、仕事を捨て、俳句の底無し沼へと沈んで行くのです。その時、きっと家族は「ヤバッ」と言ったことでしょう(笑)

そんなヘビーな野坡ですが、作風は蕉門随一の「軽み」の使い手であり、とても才能のある若手でした。

  さみだれに小鮒をにぎる子供哉 野坡

  猫の恋初手(しょて)から鳴て哀(あわれ)也 野坡 

う~ん、軽いこと、軽いこと(笑)

◆越知越人(おちえつじん) 1656~?◆

名古屋の染め物屋のダンナで、もとから酒と女には目が無い遊び人です。酒も女もその道楽の粋を尽くし、最後の道楽として芭蕉に弟子入りして俳諧を学びます。
「更科紀行」に同行し、仕事をホッポリ出して、そのまま江戸までお伴をしちゃいます。名古屋に戻ってからも、2日働いたら2日遊び、3日働いたら3日遊ぶと言った具合で、仕事なんかやる気まったく無し!(笑)
金払いがいいので芭蕉に大切にされ、酔って芭蕉に歌を聞かせたりと、芭蕉の良き飲み友達でもありました。
「笈の小文」の旅で、芭蕉のお伴で伊良子へ杜国を訪ねた時なんかは、馬に乗りながらお酒を飲んでて、ベロベロに酔っぱらっちゃいます。今だったら完全に免許取り消しでしょう(笑)

  行としや親に白髪をかくしけり 越人

なんて平気で「や・けり」の句を作っちゃうのも、昨夜のお酒が抜けてないからですね、きっと!(笑)

◆杉山杉風(すぎやまさんぷう) 1647~1732◆

江戸日本橋の魚問屋「鯉屋」のダンナで、談林風の俳諧から、芭蕉に入門した人です。自分の深川の別荘を芭蕉庵として提供したナンバーワンのパトロンで、愛する主宰のためなら、いくらでもお金を出した男なので、通称「オスギ」と呼ばれていたとかいないとか(笑)
だから、当然のことながら、弟子の中でも特別扱いを受けます。
現代の結社でも一番大切にされるタイプで、実力が無いのに結社賞を貰ったりするため、地方の会員からは不思議な目で見られちゃう。どこの結社にもいるはずです、俳句がヘタクソなのに、いっつも結社誌の上のほうに載ってる人(笑)

杉風は、俳句はイマイチだけど性格だけはとても真面目で、芭蕉からの信頼も厚く、結局は金の力で芭蕉の後継者となりますが、芭蕉の没後もその蕉風の作句スタイルを守り抜いた真面目さを考えると、結果論として、芭蕉の選択は間違っていなかったことになります。

  あさがほや其日其日の花の出来 杉風

この句からも、バカ正直で利用されやすいタイプだと言うことが分かります。

余談ですが、手賀沼の魚鳥捕獲権を持っていたので商売は順調だったのに、貞享4年(1687)の綱吉の生類憐みの令によって魚を捕ることを禁じられ、大打撃を受けちゃいました。

◆八十村路通(はそむらろつう)◆

蕉門十哲には数えられませんが、芭蕉の門弟を語る上では絶対に外せないキャラクターの持ち主です。
近江の三井寺に生まれ、古典や仏典に精通し、乞食僧侶としてあちこちを放浪します。
蕉門一の奇人で、何より素行が悪く、芭蕉がゴミ箱に捨てた失敗作の句をそっと盗み出し、勝手に発表しちゃったりもします。ですから、芭蕉だけでなく、他の門弟たちからも嫌われ、女性誌「アンアン」の「抱かれたくない男ナンバーワン」に輝いちゃったりもします(笑)

  いねいねと人にいはれつ年の暮 路通

この句などからも、路通がどれほど仲間から嫌われていたのかが分かります。
※「いねいね」とは「去ね去ね」と言うことです。

芭蕉からは、いつも怒られていて、説教入りの句を渡されたりもしています。
そんなに嫌われていたのに、「おくのほそ道」では、芭蕉を敦賀で出迎え、それからしばらくは芭蕉に同行して、翌年の年明けまで京都や大阪での生活を共にしたり、貞亨5年頃からは、深川芭蕉庵の近くに住んだりと、ケッコーくっついて回っているのです。

これで、芭蕉の門弟たちのズッコケぶりが分かったでしょうか?

こうしてみると、なんてバラエティーに富んだメンバーなんでしょう。まるで、「たけし軍団」のようです(笑) 
大酒飲みの其角は、生ビールをピッチャーのまま何杯も飲んじゃう「グレート義太夫」、女好きの嵐雪は、道玄坂の風俗店に通いまくる「そのまんま東」、真面目で融通の利かない去来は、言われた仕事なら何でもやる「ラッシャー板前」、裏表のある策略家、支考は、軍団一の世渡り上手の「ガタルカナル・タカ」
絵の才能がずば抜けていた許六は、放送作家としての才能にたけしも一目置いている「ダンカン」、芭蕉のゴーストライターとしておくのほそ道を執筆した曾良は、第二の松尾芭蕉と言うことで「松尾伴内」、金勘定が得意な野坡は、何事にも計算高い「水道橋博士」、ハレンチなことこの上ない越人は、どこでもハダカになっちゃう「井出らっきょ」、病弱の丈草は、影が薄くているんだかいないんだか分からない「つまみ枝豆」、その経済力で芭蕉の後継者となったパトロン杉風は、父なべおさみの金で大学に裏口入学しようとした「なべやかん」、素行の悪い路通は、ヤルことナスことデタラメな「玉袋筋太郎」、こんな凄まじいメンバーの上にふんぞり返っていた「たけし」‥‥じゃなくて、芭蕉!(笑)
こんなメンバーが集まり、普通の人たちが一生懸命に働いている時間に、昼間っからお酒をガブガブ飲みながら句会をやってたんだから、さぞかし楽しい毎日だったことでしょう。

まあ、芭蕉の場合は江戸時代だったからイイってことにしても、現代の主宰たちは、ちゃんと仕事をして自分の生活費くらい自分で稼いで下さいね。
会員たちを洗脳して、貢がせたお布施で生活なんかしてたら、芭蕉どころか、二枚舌の支考を超えることもできないでしょうから(笑)

図書館註:柴田宵曲『俳諧随筆 蕉門の人々』(岩波文庫)は名著です。

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