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スレッドNo.85

裏第三十一話 俳句の缶詰

赤瀬川原平さんと言う芸術家がいます。誰でも呼び捨てのあたしが、人の名前に「さん」をつけるくらいだから、どれほど尊敬しているかが分かると思います(笑)

原平さんは、尾辻克彦と言うペンネームで芥川賞なども受賞していますが、小説はあくまでもお遊びの範疇で、基本的には絵描きのはずです。しかし、ここ数年は、ラクでお金になるエッセイだとか写真だとかの仕事ばかりしていて、前衛芸術家だった若かりし頃の面影は、もう無いと思います。

最近では「老人力」のヒットで印税ガッポリだし、今までに書いた本も全てが文庫本になっているので、それらの印税だけでも左ウチワなので、今さらバカバカしい前衛芸術なんかに体力を使うより、膝に猫でも乗せて、お気に入りのライカのコレクションでも磨いていたほうが良いのでしょう。
何らかの形で芸術と関わった生活をして来た人たちは、ひと昔前の「トマソン」で原平さんの名前を知り、そうでない人たちも、少し前の「老人力」で名前を知ったと思います。

そんな原平さんが、まだ若くて、チャレンジ精神が旺盛で、胃腸が弱くてもまだ覇気があった頃(笑)、「宇宙の缶詰」と言う作品を作りました。これは、鮭缶の外側を一周しているラベルを剥がし、中身を出して、そのラベルを缶の内側に貼り直したものでした。

ラベルと言うものは、瓶にしろ缶にしろ、「その容器の内側に存在するものの固定」と言う概念を持っていますので、缶の外側に鮭の絵の描いてあるラベルが貼ってあれば、缶を開けなくとも、中に調理された鮭が入っていると言うことが分かります。
原平さんは、そのラベルと言う紙の輪を 缶の内側を固定するものではなく、缶の内側の世界と外側の世界を切り離すための封印と考えたのです。
つまり、目の前に、通常の形でラベルの貼ってある鮭缶がひとつ置いてあれば、それは一枚のラベルによって、缶の内側の世界と、それ以外の外側のすべての宇宙とに分断されている、と言う考え方をしたのです。

そして、缶の内側にラベルを貼ることにより、缶の外側のすべての世界がラベルの輪の内側、つまり缶詰の中に入ってしまうと言う「宇宙の缶詰」を作り出したのです。

発想のレベルとしては、逆立ちをして「地球を持ち上げたぁ~!」とか言ってる小学生と変わりませんが、重要なことは、それを誰よりも先にやったと言うことなのです。メビウスの帯にしろ、クラインの壺にしろ、誰でも簡単に思いつく発想ですが、それを最初にやったと言うことが素晴らしいのです。さて、毎度オナジミの長~い長~い前置きも終わり、いよいよ浅間山荘、じゃなくて、本題へと突入しましょう♪

今回の俳話は、簡単に言えば、「俳句と川柳の違い」についてです。先日、某俳句サイトの掲示板で、俳句と川柳の違いについての話題が出ていて、あたしはビックリしちゃったんだけど、俳句と川柳の違いについて、キチンと説明できる人が全然いなかったのです。挙句の果てには、「最近は俳句とも川柳とも理解できるグレーゾーンの作品が多くなって来た。」とかお茶を濁して、自分がキチンと説明できないことをゴマカす始末。俳句と川柳の違いも説明できないような人間が、平然と俳句を作ってることの不思議、ってゆ~か、そんなテキト-な人間だったら、その人の作ってるモノ自体、俳句なんだか川柳なんだか分かんないじゃん!(笑)

多くの川柳作家は、自分の実践している川柳と言う詩型をキチンと理解し、そして対岸の俳句のことも理解し、その上で作品を作っています。
ですから、俳句と川柳の違いについて問えば、皆さんキチンと説明してくれます。
それに比べ、俳人の意識の何と低いことでしょう。川柳に比べ、いくら俳句のほうが構造的に単純だとは言え、それを作り出す俳人までもが「俳句」と言う名前の上にアグラをかき、自分の作っているモノに疑問すら持たないほど単純になってしまっては、それこそ本末転倒です。

あたしは、表の俳話「俳句と川柳」の項で、「俳句は、自分の外側の世界を詠むことにより、自己の内面を表現するもの、そして川柳は、自分の内面を詠むことにより、外側の宇宙を模索するもの」と説明しました。
これは、簡単に言えば、「俳句はタダの客観、川柳は主観に基づいた自己客観」と言うことです。
もちろん、これがすべてではありませんし、例外も色々とありますが、この時は、俳句と川柳の違いを明確にすることではなく、本当の川柳を知らない俳人が、滑稽な句や低俗な句を目にした時に、安易に「川柳的な句だ」と発言することに対する啓発が俳話の主旨だったので、この程度の説明に留めたのです。

ここらでそろそろ、長かった前置きと長かった本文が、「釣りバカ日誌」のハマちゃんとミチコさんみたいに合体しますが、ようするに、「鮭缶が川柳、宇宙の缶詰が俳句」と言うことなのです。つまり、ラベルが貼ってあって中身が分かるほうが「川柳の缶詰」で、内側にラベルが貼ってあるために外からは中身が分からないほうが「俳句の缶詰」なのです。

ここで考えて欲しいのは、作者、つまり自分の立ち位置です。どちらの場合も、作者は缶詰の外側にいます。川柳の場合は、缶詰の中を詩の対象とするのですから、自分を含めた対象以外のすべてのものは、外側から傍観する形になります。例えば、自分の心象を詩にしたい場合は、その部分だけを缶詰の中に入れ、誰にでも分かるように「心象」と言うラベルを貼り、そして缶の内部を切り取るのです。

しかし、俳句の場合は、ラベルを内側に貼ったことにより、缶詰の外側にある、自分を含めたすべての世界が、実は缶詰の内側と言うことになります。ですから、空も海も鳥も花も自分も、みんな同じ「宇宙の缶詰」の中に混在しているわけで、空を写生することも花を写生することも、煎じ詰めれば自分自身を写生することに繋がるのです。
しかし、その詩を読む者からは、作者が一番伝えたいこと、つまり「ラベルの文字」が見えないために、自分の舌で味わい、何の缶詰なのかを推測しなくてはならないのです。
そして、人間の舌は十人十色ですから、読み手によって解釈の幅が生じて来るのです。

しかし、この考え方を実作にあてはめて検証すると、俳句と川柳との間に、類句が生まれる可能性があります。
俳人は、俳句の世界の中だけで類想類句を論じますが、俳句の世界には類句が見当たらないような、ちょっと個性的で主観的な句ほど、川柳の世界を覗くと、類句がザクザク出て来るのです。
実際、似ているとかのレベルではなく、あたしは過去に、有名な川柳と一字一句同じ俳句を句会で目にしました。もちろんその人は「俳句」として作ったのですが、結果、先に発表されていた川柳とまったく同じものになってしまったのです。それでは、その一字一句同じな十七音の詩は、俳句なのでしょうか?それとも川柳なのでしょうか?
答えは簡単です。俳人の作ったほうは俳句で、川柳作家の作ったほうは川柳なのです。ようするに、まったく同じ作品であっても、作者が俳句として作れば俳句、川柳として作れは川柳になるのです。

つまり、俳句と川柳の違いとは、作品ではなく、作句の過程なのです。結果として同じ作品が生まれてしまったとしても、缶詰のラベルが外側に貼ってあり、その中に対象を置き、それを切り取れば川柳となり、ラベルが内側に貼ってあり、自分と同じ外側の世界にある対象を切り取れば俳句となるのです。

そして、一字一句同じ詩であっても、川柳のほうにはラベルが貼ってあります。先ほど、あたしが知っていると言った作品は、ある花を詠んでいました。ですから、川柳として作られたほうの作品は、その花の名前がラベルとなり、缶詰の中にはその花が入っています。
作者は、缶詰の中の花を詠むことにより、そこに外側の自分を投影し、二次的に自分の心象などを表現しているのです。
しかし、俳句として作られたほうの作品は、読み手にはラベルが見えませんので、作者が一番伝えたいことは分かりません。作者は、ラベルの外側と言う無限の缶詰の内部から、ひとつの花を選び、自分と同次元にあるその対象をただ単に詠んだだけあり、ラベルに書かれた文字は、読み手ひとりひとりがイメージするのです。

結論として、まったく同じ詩であっても、その作品が俳句として提示された場合と、川柳として提示された場合では、読み方も違って来ますし、解釈も違って来るのです。

俳句と川柳の違いを論じる時に、季語の入っている川柳と無季の俳句などを一緒に並べ、その違いを説明しろなどと言うくだらないことを言い出す人がいます。
そんなもの、あたしに言わせれば、今どき第二芸術論を引っ張り出すのと同レベルのピント外れのことで、自分の無知を晒すだけのまったく無意味な行為です。俳句と川柳の違いとは、あくまでも作句過程における違いであり、読み手が作品だけから判断できるものではないのですから。

川柳作家の多くが分かっているこんな当たり前のことを 初心者ならともかく、何年も俳句をやっている人間にも分かってない人がいるとは、まったく開いた口が塞がらないダッチワイフみたいなもんです(笑)

近年、俳句と川柳のボーダーラインがあやふやになって来たと言われるのは、100%俳人側に責任があることなのです。
自分の実践する詩型を正しく理解し、そして俳句のことも理解している川柳作家たちは、いつの時代も川柳と正しく向かい合っています。
しかし、悲しいことに、俳句と川柳の違いも分からない俳人たちは、どんどん内側の世界へと進んで行き、外側にラベルを貼った缶詰を積み重ねているのです。

あたしが客観写生を提唱しているのは、俳句が俳句として存在するための、最も重要な作句過程、作句姿勢の問題なのです。
一番伝えたいことは言わないように、と言っているのは、缶詰のラベルを内側に貼れ、と言うことなのです。それは、対象と自分とを缶の内と外とに二元的に置かずに、常に対象と同じ世界に自分の足をつけていろと言うことなのです。

この基本中の基本ができなければ、俳句は限りなく川柳に近づいて行ってしまうのです。ですから、客観写生を否定する俳人は、明日から川柳作家に転身するべきだと思っています。マジで!(笑)

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