裏第三十五話 軽視される片仮名表記
「俳句朝日」の9月号を読んでいたら、カラーグラビアのあとの「心の小窓」と言うコーナーに、気になる句がありました。「心の小窓」は、著名俳人の書き下ろしの7句を発表するコーナーですが、今回は後藤比奈夫の「時計草」と言うタイトルの7句でした。「時計草」と言うタイトルなのに、時計草を詠んだ句は1句だけで、あとの6句は関係無い句です。その上、句の下のエッセイも時計草のことが書いてあるので、その1句が何よりの自信作なのでしょう。それが、次の句です。
ローレックスより垣を這ふ時計草 比奈夫
ここまで読んだアナタは、あたしがこの句に厳しいツッコミを入れると思うでしょうが、正直言って、一般誌などに発表されるこんなレベルの句にいちいちツッコミを入れてたら、寝る時間も無くなっちゃいます。ツッコミどころは満載の句ですが、あえてツッコまず、今回も読者のタメになる俳話を書いて行きましょう。
さて、この句を読んであたしが気になったのは、何と言っても「ローレックス」です。
ローレックスって何? ロレックスの間違いじゃないの?
そう思ったあたしは、色々と調べてみました。そして分かったのですが、今から何十年も前には、ロレックスのことをローレックスと間違った呼び方をしていた時代があったそうです。
後藤比奈夫は、わざと古い「間違った呼び方」をすることにより、そのロレックスが古い時計であることを表現しようとしているのかな? と、あたしにしては、すごく親切な解釈をしてあげようと思いました。しかし、エッセイの中にも「私の腕にもローレックス。」と言う一文があるのです。つまり、何の考えもなく、ただ単に間違った呼び方、そして表記をしているだけなのです。
お年寄りが外来語に疎いのは分かりますが、俳句として発表する以上、表記は正しくあるべきです。この後藤比奈夫の原稿を受け取った時点で、なぜ編集部員は教えてあげなかったのでしょうか?相手が相手だけに、言い出せなかったのでしょうか?
あたしが電話で問い合わせをした、ロレックス社の日本の代理店の広報部は、次のように言っていました。
「本当に困るんですよね。今だにローレックスって思い込んでるご年配の方々には‥‥会話の中で言われるぶんにはまだ良いのですが、多くの人が目にする活字媒体で間違った表記をされるのは‥‥」固有名詞を間違えて表記すると言うことは、人の名前を間違えることと同じであり、自分が恥をかくだけでなく、相手に対してとても失礼なことなのです。
後藤比奈夫の句は、正しく表記すれば、上6の字余りも解消できますし、ロレックス社の関係者達に対しても失礼にならないでしょう。
こう言った片仮名表記の間違えって、ワリと多く目にします。例えば、「コーラ」を「コーラー」、「ソーダ水」を「ソーダー水」と書いている句もたまに見かけます。
ソーダー水洒落つ気なしの亡母偲ぶ 松村多美
この句なども、正しく「ソーダ水」とすれば、字余りでなくなります。この句は、今から8年ほど前に「角川俳句」に発表されたものですが、それより何十年も前の星野立子や加藤楸邨だって、ちゃんと「ソーダ水」と表記しています。固有名詞でない片仮名語になると、その表記は、より、いい加減になります。
エープリルフールなればと思ふこと 稲畑汀子
「エープリル」ではなく「エイプリル」です。
寸鉄のヘヤピンを挿し炎天へ 鷹羽狩行
「ヘヤピン」ではなく「ヘアピン」です。
炎帝やベーブリッヂを眼下にす 高橋静女
「ベー」ではなく「ベイ」です。
シェープアップ水着に身体納むこつ 穐山珠子
「シェープアップ」ではなく「シェイプアップ」です。
これらは、たまたま手元にあった俳句総合誌2冊をパラパラとめくって、目についたものです。しかしこれらは、ただの間違い、勘違いの類なので、まだマシです。もっとひどいのは、音数合わせのために、ワザと間違った表記をするケースです。
例えば、上五や下五に置くために、「エレベーター」を「エレベータ」などと書く人がいますが、こう言った確信犯は最悪です。定型に当てはめるために言葉をねじ曲げるなんて、ジグソーパズルに、合わないピースを無理矢理ねじ込むのと同じです。知恵の輪を力まかせに引きちぎるのと同じです。
本来ならば、「エレベーター」と言う6音を中七におさめたり、句またがりで処理すべきなのに、自分にその能力が無いからと言って、自分勝手に言葉を切断してしまうなんて、たった1音でも絶対に許されません。どうしても推敲できなければ、堂々と上六や下六の字余りにすべきなのです。また、あくまでも定型にこだわりたいのなら、「昇降機」と言う言葉を使えば良いのです。日本語の表記に対しては、必要以上にうるさい俳人の多くが、なぜ、外来語、片仮名語の表記には無頓着なのでしょうか?
それは、心のどこかで外来語を軽視しているからなのです。稲畑汀子などは、「バレンタインデー」を「ヴァレンタインデー」と表記する細かさと、「エイプリルフール」を「エープリルフール」と表記する大ザッパさが混在し、まるで一貫性がありません。今だに、何十年も前の歳時記に書いてある間違った表記をそのまま使用しているなんて、言語に対する向上心と言うものがまったく感じられません。
俳句に使う以上、どんな言葉であっても、ひとつひとつに魂の宿る大切な言の葉なのです。俳人たるもの、もっと大切に扱って欲しいと思います。