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スレッドNo.90

裏第三十六話 しなやかに

  やませ来るいたちのやうにしなやかに 佐藤鬼房

これは、あたしの大好きな句です。知らない人のために簡単に書いておきますが、鬼房(おにふさ)は「小熊座」と言う結社の主宰で、去年(平成14年)の1月に亡くなってしまいました。

鬼房は、あたしの好きな俳人のひとりで、たくさん好きな句がありますが、その中でも飛び抜けて好きなのがこの句です。一応、説明しておきますが、「やませ」と言うのは、5月から6月にかけて東北一体に吹く冷たい山風のことで、冷害をもたらすために、農民から忌み嫌われているものです。

あたしは、「~のやうに」「~の如く」と言った直喩の見立ての句は作りません。作る場合は、暗喩の句だけです。何故かと言うと、直喩の句は、この鬼房の句で極まったと思っているからです。子規や虚子の雑な見立てを中央に置き、その周りで、数え切れない俳人たちが数え切れない見立ての句を作って来ましたが、その8割は類想句であり、眼目であるはずの見立て自体が、ありふれたものばかりなのです。

残りの僅かな句の中には、なかなか良い句もありますが、それらが束になってもかなわないのが、この鬼房の句なのです。ですから、あたしは、この句以上の見立てを思いつかない限り、直喩の句を発表する気はありません。

さて、この句の眼目と言えば、もちろん「いたちのやうに」と言う見立ての部分ですが、その比喩を不動のものにしているのが、「しなやかに」と言う巧みな措辞の下五への配置によるものです。この「しなやかに」は、「いたち」を形容しながら、そのいたちの姿を通して「やませ」をも形容しています。この句の場合は、いたちは比喩に使われているだけで、実際には登場しませんが、もともとは目に見える動物です。そして、やませは、目に見えません。つまり、この「しなやかに」は、目に見えるものと見えないものを同時に形容しているのです。

それでは、次の句はどうでしょうか?

  猫の尾のしなやかに月打ちにけり 金子敦

この句の「しなやかに」は、「いたち」と同じように、目に見える猫の尾の動きを形容しています。そして、この「しなやかに」と言う表現は、ただ尾の動きを形容しているだけでなく、その猫が、スタイルの良い美形の猫だと言うことも伝えてくれています。そして、多くの読み手の脳裏に、影絵を見ているような、月明かりをバックにした、なめらかな猫のシルエットが浮かび上がるのです。目に見えるものを「しなやかに」と形容した句は、他に次のようなものがあります。

  すみれ踏みしなやかに行く牛の足 秋元不死男

  児を産みて踊れる手足しなやかに 品川鈴子

  しなやかに指組みませり睡蓮花 伊藤敬子

これらの句の「しなやかに」は、それぞれが別のしなやかさであり、そして、目に見えるものを形容しながら、猫の尾の句と同じように、プラスアルファの表現をしているのです。

また、次のような句もあります。

  しなやかに青藺田の端乱れけり 八木林之介

この句も同じく、目に見える青藺田(あおいだ)のことを形容してはいますが、少し方法を変え、本来は「しなやかに」とは形容しない「その乱れた様」を指しています。ようするに、純粋な写生ではなく、表現上のレトリックにより、読み手に「巧い」と言わせたい句でなのです。
あたしから見れば、「しなやかに乱れる」と言う表現は、「いきいきと死んでいる」と同列の、作意が見え見えの嘘臭い表現でしかありません。この程度のレトリックに騙されるのは、それなりの読み手だけなのです。
同じ藺田を詠んだ句なら、次の句のほうが何倍も優れています。

  藺の水に佇めば雲流れけり 大橋越央子

さて、話を「しなやかに」に戻しますが、それでは、次の句はどうでしょうか?

  ぬばたまの夜をしなやかに弥生くる 鈴木茂雄

この句は、今までの句とは逆に、「やませ」のように目に見えないものを対象としています。それどころか、やませは目には見えなくとも肌で感じることができますが、この句の「弥生」は、人間の五感には作用しない、まったくの漠然とした存在なのです。
その掴みどころのないものの存在、そしてその接近を作者は五感を超えた第六感で感じとり、「しなやかに」と言う表現で見事に捉えたのです。

この句に近い感覚で「しなやかに」を使っているのが、次の句です。

  しなやかに刈干草の夜となれり 猪俣千代子

この句の「しなやかに」は、もちろん「夜」に掛かっています。しかし、その「夜」を通して「刈干草」の姿にも反映されています。つまり、「やませ」の句とは逆のパターンなのです。

これらの句を読み、同じ「しなやかに」と言う言葉が、これだけ多様に使われていることが分かったと思います。通常の文章や日常会話などで「しなやかに」と言った場合には、その言葉だけの意味しかありません。

しかし、俳句の場合には、そんなに単純なことではないのです。対象が目に見えるものの場合には、その対象が「しなやか」なのは当然であり、それ以上のプラスアルファの部分にこそ、その言葉を斡旋した意味があるのです。そして、対象が目に見えないものの場合には、目に見える「いたち」の姿を借りて、対象である「やませ」への措辞としたり、また、研ぎ澄ました第六感により、漠然とした「弥生」と言う存在を捉えたりと、とても高度な技術力、斡旋力、センスが要求されるのです。

ふだんの会話などでは、まったく意識せずに使っている形容詞も、俳句に使う場合は、季語の斡旋と同じく、十分に考え抜いた上で、絶対に妥協せず、最高の言葉を選択しなくてはならないのです。

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