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スレッドNo.92

裏第三十八話 第49回角川俳句賞受賞作品「色鳥/馬場龍吉」を読む

龍吉さんが、第49回の角川俳句賞を受賞しました。その受賞作品50句と、選考の様子が掲載されている11月号が発売されたので、さっそく買いに行って来ました。

俳句雑誌は、すべて図書館に読みに行っているので、あたしがお金を払って俳句雑誌、それも「角川俳句」なんかを買うと言うことは、よほどのことなのです。天変地異の前ぶれかも知れません(笑)

‥‥なんて前置きは玉置宏に任せておいて、せっかく買って来たので、龍吉さんの受賞作品を鑑賞してみたいと思います。

「色鳥」と言うタイトルの50句は、秋から始まり、冬、春、夏へと続いて行く、その名の通り「彩り」にあふれた作品でした。

‥‥ツカミはOK? それとも、ひと足早い北風が吹いた?(笑)。さて、ここからは真面目に行きますが、選考委員の宇多喜代子が触れているように、50句の中に、「影」と言う文字を使った句が多く出て来ます。

  石ころに石ころの影一遍忌

  水底に影の生れて澄みにけり

  手のとどくところに影や冬木立

  日向ぼこしてゐる影のありにけり

  炎にも影ありにけり女正月

通常は、50句の中になるべく同じ文字を使った句を置かないようにするものです。しかし、この作品は「影」と言う文字を使った句が5句もあり、その上、ただ文字だけが重複しているのではなく、それぞれの句の眼目を「影」に置いているのです。

それでも、それほど重複を感じさせないのは、影と言う実体の無いものを詠めば、読み手の視点は、その影を作り出している対象へと移行するからなのです。
その影の主までが同じであれば、重複感は増してしまいますが、この5句は、それぞれ、石、水、木、人、火、と言うまったく別の対象を切り取っているのです。

石ころを写生すれば、そこには石ころしか存在しませんが、石ころの影を写生すれば、必ずそこに、影を生み出すための、太陽や電灯などの光源が見えて来ます。そして、同じ太陽であっても、季語の力により、真夏の灼熱の太陽であったり、消え入りそうな冬の太陽であったりと、読み手に対して多くの情報、情景を伝えてくれるのです。

影を詠むことにより、対象を中央に置いた光と影の相対関係が生まれます。それは、対象を陰と陽の視点から捉える、立体的な切り取り方なのです。

「影」と言う漢字には、他にも「陰」「蔭」「翳」などの表記があります。小理屈を眼目とした左脳俳人たちは、いかにも何か深い意味があるように見せたくて、こぞってこれらの漢字を使い分けます。

しかし、本来「影」と言うものには意味などなく、表記を変える必然などありません。意味があるのは、影の主と、その光源なのです。ですから、必然も無いのに表記を使い分けるなどと言う小技でごまかさず、あえて同じ文字で表記した作者は、写生の本質、文字の本質を十分に理解していると言えます。

次の2句は、龍吉さんが、2月と3月のハイヒール句会に投句してくださった作品です。

  団欒や雛の一つに影二つ

  佇める影を流れて春の水

1句目は、一つの雛人形に二つの影があると言うことから、複数の部屋に電気がついている一家団欒の風景が見えて来ます。
2句目は、自分自身の影の上を流れていく川の様子から、光源(太陽)の位置や作者の立ち位置などが明確になり、一句に立体的な構成をもたらしています。

「影」を詠むと言うことは、「影」から「影の主」、そして「光源」へと、一連の視点の流れを生み出します。50句の中には、「影」と言う文字を使っていなくとも、同じように影から光へ、光から影へと、視点の流れを感じさせる句が見られます。

  手花火のそれはまぶしき子どもかな

  日傘より一人は海へ走りだす

  四阿のひとを呼びだす浮巣かな

  葉の裏へ蛍の光まはりたる

これらの句には、始めから動きがあり、その動きが陰と陽を表現しています。反対に、一遍忌、冬木立、日向ぼこ、の「影」の3句は、句の中には動きがありません。しかし、読み手の視点が、影→対象→光、と流れて行くために動きが生まれます。つまり作者は、動いている対象に対しては、その移動の過程に陰陽を表現し、動かない対象に対しては、その影を詠むことにより、視点の動きを生み出すとともに、陰陽を表現しているのです。

そして、前出の他の「影」の2句は、それぞれ水と火を対象にしています。この2つの対象は、それ自体が個性的な性質を持っているので、たいていの詠み手は、水自体、火自体を詠むことが多く、なかなかその影にまでは目がおよびません。

つまり、同じ文字を使った句が多くとも、それぞれが別の必然を備えており、「同じ文字を使っている」と言う部分以外は、まったく別の独立した句なのです。たとえ文字が重複していなくとも、その発想や組み立て方の同じ句が50句中に5句もあれば、予選を通ることもできないでしょう。龍吉さんの50句には、他にも、同じ言い回しを使った句や下五の処理が同じ句などもありますし、季重ねの句も6句もあります。しかし、それらがほとんど気にならずにスルッと読めたと言うことは、それぞれの言い回しや季重ねに必然があり、句の焦点が絞られている独立した句だと言うことなのです。

実際、季重ねに関しては、3人の選考委員が誰も触れていません。それだけ必然性が高く、一句として自然体である、と言うことなのです。

50句を通して感じられたことは、リアリティーの高さです。それは、たとえ対象を見ずに頭の中で作っていても、左脳俳人たちのように小理屈や小主観に支配されて嘘八百を並べているのではなく、過去に見た風景や体験したことなどを右脳の中にイメージとして浮かび上がらせ、その感覚をベースに作句しているからなのです。この方法も、写生のひとつの形なのです。
50句の中で、左脳に比重を置いて作られた句はたった1句だけであり、あとはすべて右脳に作句の重心が置かれています。
ちなみに、左脳で作られたと感じたのは次の句です。

  いかのぼり小さくなつて重くなる

この句には、リアリティーを感じませんでした。もちろん龍吉さんは、子供のころ、何度も凧揚げをしたことがあると思います。しかしこの句は、子供のころの凧揚げの感覚を右脳の中に蘇らせて作ったのではなく、イメージ喚起の段階で左脳が介入し、言葉を組み立てて行く過程では、左脳が主導権をとってしまっているように感じました。

リアリティーの高さの次に感じたことは、季語が良くこなれている、と言うことです。
それが、季重ねであっても、読み手にそれを意識させないのだと感じました。
一句一章ならともかく、取り合わせの句においても、いかにも「これが季語ですよぉ~!」と言うわざとらしい斡旋ではなく、一句の中に溶け込んでいるのです。

  初潮や文箱の螺鈿にじいろに

  釉薬を如雨露で流す菊日和

  曳き船が船を曳きゆく暮の春

これらの季語の斡旋は、いわゆる「季語が動かない」と言うよりも、季語が一句の中に溶け込んでいるのです。これは、龍吉さんの句の持ち味であり、大きな魅力となっています。

今まで挙げた句の他で、あたしが特に水準が高いと感じたのは、次の9句です。

  色鳥の五六七八まだまだ来

  水口を落ちてはるかに水の渦

  威銃蜘蛛の囲に引つ掛かりゆく

  枯草のつらぬいてゐる兎罠

  潮騒の路地の奥まで初日の出

  龍天の盥をめぐる鱗かな

  鳴きながら透きとほりけり揚雲雀

  釣銭の落ちてころがる海市かな

  群れなして黒きつむじや柳鮠

一句づつ解説していると大変な長さになってしまうので、句を引いただけにさせていただきますが、この9句は、それぞれにとても高度なテクニックが見られます。そして、その力が本物なので、読み手にそれを感じさせません。

いかにも「巧いだろ?」「どうだ?」と言わんばかりの左脳俳句は、目のつけどころや言い回しなど、ようするに「言葉のテクニック」を売り物にしているので、技術を丸見えにした下品な句ばかりで、まるでハダカで歩行者天国を歩いているようなものです。
しかし、本物の写生俳句は、そんな低次元な世界に眼目を置いてはいません。
俳句の王道である写生俳句は、どんなに高度なテクニックを持っていても、決してそれを売り物にしたりせず、気づかれないようにコッソリと使います。あくまでも売り物は作品自体の質であって、技術は見せびらかすものではないからです。そして、本当に素晴らしい句と言うものは、テクニックなどは感じさせないのです。

さらに言えば、作者自身も、自分の技術力の高さに気づかず、自然に作句しているのです。このような作句スタイルは、何十冊俳句誌を読んだところで身につくものではなく、長い年月、コツコツと写生を積み重ねて行く上で、知らず知らずのうちに体得して行くものなのです。

さて、連作の場合は、その句の配列がとても重要で、同じ50句であっても、並べ方を失敗してしまうと、すべてが台無しになってしまいます。
「色鳥」50句の配列は、弱い句が強い句をさらに盛り立て、強い句は弱い句をフォローし、句から句への流れも良く、パーフェクトと言えるでしょう。

宇多喜代子が選評で、「冬木立」と「日向ぼこ」の「影」の句が並んでいることについて、「~この辺は工夫がないなという感じがしないでもない。五十句は構成の力が要りますから。」と言っていますが、これは宇多喜代子の読みが浅いのです。

作者は、そんなことは十分に分かっていて、あえてこの並びにしているのです。これは、宇多喜代子の読み負けですね。
しかし、さすが感性の鋭利な宇多喜代子なので、ハッキリと作者の意図が分からずとも、何かあるのかも知れない、と感じたのでしょうか? 断定的な発言は避け、「~ないなという感じがしないでもない。」なんて、イマドキの女子高生みたいな、逃げ道を作った言い回しをしています(笑)
「冬木立」と「日向ぼこ」の2句の並びを説明するには、その前後の句も引く必要があります。それは何故かと言うと、連作の場合は、前の句の下五が、次の句の上五へとつながって行くからなのです。

  猟犬ハ腹ヲ汚スヲ旨トスル

  手のとどくところに影や冬木立

  日向ぼこしてゐる影のありにけり

  手袋を編みあげし指冷たくて

「猟犬」の句は、下五の「旨トスル」で切れていますので、次の句にはつながりません。そして次の句は、中七の「や」で切れ、下五の「冬木立」は次の句の上五「日向ぼこ」へとつながって行きます。そして「ありにけり」で大きく切れ、一拍おいて、次の「手袋」の句が始まるのです。

「冬木立」と「日向ぼこ」の2句の並びは、始めに書いた「陰から陽への視点の流れ」が分からなければ、理解することはできません。
作者は、公園のベンチにでも座っているのでしょう。足元まで伸びて来ている冬木立の影。顔を上げると、木々の向こうに冬の太陽がぼんやりと浮かんでいて、とても寒々しく感じます。
そして、また視線を戻すと、さっきは気づかなかった人の影が、木立の影の少し先に見えました。日向ぼっこでもしているのでしょうか。それはまるで、その影自体が日向ぼっこをしているようにも見え、その光景に、作者はほんの少し、暖かさを感じたのです。

作者の視点は、足元の影(ここで、何の影だろう?と、一度切れます。)→影の主(冬木立)→冬の太陽→日向ぼこの影→影の主→日向ぼこの影、と流れて行きます。そして、冬の太陽を見るまでは寒々としていた作者の心は、日向ぼこの影にその主の投影を感じた時点で、少し暖かく変化するのです。
ようするに作者は、同じシチュエーションで同じ「影」と言う言葉を使った2句をあえて並べ、「寒い影」から「暖かい影」への心象の変化を表現したのです。

仮にも選考委員たるもの、このくらいは読めなければお話になりません。

とは言え、選考委員のレベルの低下がハナハダしい昨今の俳句賞の中で、今回はそこそこ句読力のある俳人が揃ってくれたおかげで、正しい選がなされたと感じました。
最終選考に残った、他の4名の作品を読んでみれば、誰もがそう思うはずです。

「色鳥」50句を鑑賞して感じた龍吉俳句の魅力とは、立体的に対象を取材する写生眼と確固たる技術力に裏打ちされた「感性の豊かな自然体の俳句」と言うことになると思います。最後になりますが、龍吉さん、本当におめでとうございました!

受賞の言葉の中で、ネットの連衆のことにも触れてくださった心配り、とても嬉しかったです♪
※追記といたしまして、俳句サイト「影庵」へ投稿した、あたしの「色鳥」よりの10句選の原稿を付記しておきます。

   『色鳥より10選』  きっこ

◆ 色鳥の五六七八まだまだ来

この「まだまだ来」は、もちろん「まだまだ九」を踏まえています。小鳥が「五六七八」と来て、「まだまだ」と溜めて、そして九匹目が飛んで来るのです。まさしく、リーチ、一発、ツモ!の快感ですね。

◆ 水口を落ちてはるかに水の渦

素晴らしい句なのですが、ひとつだけ分からなかったのは、この句が秋の項に置かれていたことです。水口(みなくち)を秋の季語とするのならば、それは「落し水」の副題となります。落し水とは、水口を塞ぎ、畦を切って田の水を落し、稲刈りに備えるための準備なのです。
晩春の水口祭(苗代祭)が終わり、田打ち、畦塗りをしたら、水口を開けて田にひたひたに水を張り、田植えに備えます。そして、夏の田植えが終わって、初めて水口から勢い良く水を落とします。

ですから、あたしは田植えに順ずる夏の句としていただきました。

◆ 威銃蜘蛛の囲に引つ掛かりゆく

同じ句跨りでも、中七に促音の「つ」を文字通り引っ掛けたところが職人ワザですね。

◆ 枯草のつらぬいてゐる兎罠

兎罠の句と言うと、あたしは次の2句が大好きで、すぐに浮かびます。

しくしくと水音のあり兎罠  齋藤朝比古

朴の葉をいちまい噛みて兎罠  木内影志

どちらも素晴らしい句ですが、龍吉さんの句は、これらを完全に超えています。

50句の中で最も優れた作品であり、一番好きな句です。

◆ 鳴きながら透きとほりけり揚雲雀

雲雀の季語はたくさんありますが、そのほとんどは、草むらなどに姿が隠れているため、チチチチッと言う鳴き声を指します。その中で、ハッキリと姿が見えるのが、空中でホバリングしていたり、飛びながら鳴いている揚雲雀です。その揚雲雀さえも、太陽の光の中へと溶けて行ってしまい、鳴き声だけが残ったなんて、季語の本意を知り尽くした作者ならではの切り取り方です。俳句のひとつの完成形と言えるでしょう。

◆ 釣銭の落ちてころがる海市かな

海市(かいし/蜃気楼)が見えるのは富山湾が有名ですが、稀に、千葉などの太平洋側でも見えることがあります。海市の「市」は、もちろん都市の「市」ですが、描写と句形から、海辺の市場で鮮魚を買う作者の姿が見えて来ます。取り合わせの句なのに、描写に季語が完全に溶け込んでいて、滑らかな一物を成してします。感性と技術、どちらが欠けても詠めない句ですね。

◆ 群れなして黒きつむじや柳鮠

鮠(ハエ)は、正式にはウグイと呼びますが、関東ではハヤと言います。しかし、ヤナギバエと言うと、柳の葉ほどの稚魚のことで、ハヤだけでなく、オイカワ(ヤマベ)の稚魚のことも指します。
ヤナギバエは、ニゴイやライギョなどの天敵から身を守るために、流線型の群れになって泳ぎ、そのシルエットで、相手よりも大きな魚を演出します。その群れが淵などでUターンする時は、まさしく黒いつむじのように見えます。俯瞰で見下ろしている、作者の立ち位置のしっかりとした句です。

以上の7句が、特に素晴らしいと感じた作品で、あと3句選ぶとしたら、次の作品になります。

◆ 初潮や文箱の螺鈿にじいろに

◆ 潮騒の路地の奥まで初日の出

◆ 龍天の盥をめぐる鱗かな

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