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スレッドNo.94

裏第四十話 絵画的写生俳句

芭蕉、蕪村、一茶の三人は、誰でも知っている江戸の俳諧師ですが、この三人の句風を比べると、もっとも現在の俳句に近いのは、間違いなく蕪村でしょう。

それは何故かと言うと、蕪村は、画家としても優れた才能の持ち主だったからです。その作風は、対象を絵画的に切り取っているため、一読で、文字から直接、景が立ち上がって来るのです。これは、現在の写生を基本とした俳句に、もっとも近い作り方であり、現在でも十分に通用します。

  菜の花や月は東に日は西に 蕪村

  ぼたん散ってうちかさなりぬ二三片 〃

  夏河を越すうれしさよ手に草履 〃

  春の海ひねもすのたりのたりかな 〃

  五月雨や大河を前に家二軒 〃

子規の確立した「俳句」は、それまでの観念的な言葉遊びである「俳諧」から、理屈と主観を排除し、写生と言う絵画の技法を取り入れることによって生まれた文芸です。

ですから、単純に言えば、まったく絵心の無い人よりも、絵を描くことを得意とする人のほうが、俳句を作るのに適していると言うことになります。

蕪村の場合は、一応は絵や書を描いて生業としていましたが、その心は、俳諧を第一と考えていました。ようするに、俳諧こそが主軸であり、絵や書は、生活のため、そして、自己の俳諧を完成させるためのエッセンスだったのです。

それでは、俳句の世界ではどうでしょう。
俳句の世界にも、余技としての絵画がプロ顔負けの俳人がいます。
野見山朱鳥(あすか)は、絵画だけにとどまらず、棟方志功の版画ブームが起こり、猫も杓子も版画家を目指した時代に、そこらのニワカ版画家とは一線を画した素晴らしい作品を数多く発表しています。
「日本版画協会展」や、木版画を板画(ばんが)と呼んでいた、棟方志功の主催する「日本板画院展」にも入選していて、俳人でありながら、版画集を3冊も出版しているのです。

その上、全国の俳人の憧れであったホトトギスの巻頭に、何度も輝いています。虚子からの評価は高く、朱鳥の第一句集「曼珠沙華」には、次のような序文が見られます。

「序/曩(さき)に茅舎(ぼうしゃ)を失ひ今は朱鳥を得た。/昭和二十五年七月二十七日/鎌倉草庵 高濱虚子」

‥‥てことは、あの天才、川端茅舎と同格ってこと?

悪いけど、あたしは納得できません! 
あたし的には、茅舎の句を10点としたら、朱鳥の句は3点くらいです。
いくらホトトギスの巻頭になったって言ったって、当時の虚子は70才を越えていて、正直、正しい選なんかしていません。

ワンマン全開の虚子は、自論を肯定させるためなら、歴史的事実もねじ曲げ、平然と大嘘をつくほどの分厚いツラの皮の持ち主です。還暦を越えたころから、そのワンマンぶりに拍車がかかり、誰も認めないような変な句を選び、どうだ!俺様の選は絶対なのだ! なんてワケの分からないオヤジになっちゃいました。ようするに、自分がロクな句も作れなくなっちゃったから、一風変わった選で自己顕示欲を満たしていたのです。

バブルの頃の、社員を整列させて、カラオケで「マイウェイ」を熱唱する、叩き上げの土建屋の社長みたいなもんです(笑)
虚子は3回、朱鳥の句をホトトギスの巻頭に選んでいますが、それが次の句です。

     昭和21年12月

  火を投げし如くに雲や朴の花

  なほ続く病床流転天の川

     昭和26年3月

  われ蜂となり向日葵の中にゐる

  爪に火を灯すばかりに梅雨貧し

     昭和28年7月

  生まれ来る子よ汝がために朴を植う

  雪を来し足跡のある産屋かな

おいおいおいおいっ!

主観丸出しの押し付け俳句や陳腐な見立てのうんざり俳句、どこが花鳥諷詠なの?

朱鳥は、絵画も版画も素晴らしいけど、カンジンの俳句は、申し訳ないけど話になりません。

虚子が認めても、あたしは認めません。
九州造形短期大学学長で田川市立美術館館長の谷口治達氏は、福岡県俳句協会会長で「円」の主宰の岡部六弥太氏との対談の中で、野見山朱鳥について、次のように語っています。

「(前略)遺された意欲的な油絵や版画を見ると、朱鳥ファンには失礼だが、本来は画家になるべき人が、代償的進路の俳句に進んだのでは…。画家の道を歩めば一家をなしていたでしょう。(後略)」

さて、恒例の長~~~い前置きも終わり、そろそろ本文に入ろうと思います(笑)

蕪村が、余技の絵画や書の技法を自らの俳諧にフィードバックさせていたのに対し、朱鳥は、絵画や版画は素晴らしかったのに、それがカンジンの俳句に生かされていなかったのです。
それでは、俳人の中で、蕪村のように、本業も余技も素晴らしい作家はいるのでしょうか?

それは、残念ながらいないのです。しかし、逆のパターンなら、いるのです。

つまり、本業は画家であり、もちろん絵画は素晴らしく、その上、余技の俳句も素晴らしい人がっ!

それが、竹久夢二なのです。夢二の絵画に関しては、今さら語ることもないでしょうが、案外知られていないのが、夢二の俳句なのです。

平成6年に筑摩書房から刊行された「夢二句集」には、彼の遺した1256句がすべて掲載されています。
そのうち、100句以上が、なかなか水準の高い作品で、ハッキリ言って、俳句が本業の朱鳥よりも、レベルは上です。
この夢二の句集は、出来の良い句だけを選んで編集する一般の句集と違い、歴史的参考資料のような形なので、どんなにヒドイ句であっても、確認のとれたものはすべて掲載しています。それで約1割が良い作品だと言うのは、とても打率の良いバッターだと言うことになります。

それでは、何句か紹介しましょう。

     夢二 12句 (きっこ選)

  春風の来ては花粉(はなこ)をこぼしける

  小便の燦爛(さんらん)として春の月

  病院へ咲いて見せたる桜かな

  病める子の鏡にうつる青葉かな

  花魁(おいらん)の出窓に小さき金魚鉢

  ほつれ毛に遊ぶ風あり青すだれ

  馬市の彼方に白き秋の海

  指がまづそれと気のつく春の土

  青芦やふきよせられし蟹の泡

  こすもすや人も柱によりかかる

  足音のうれしき宵や吾亦紅(われもこう)

  ぬぎすてた足袋にひとりの夜寒かな

とても、余技とは思えない水準の高さです。

そして、これらの句を読んで分かることは、蕪村の句のように、対象を絵画的に捉えていると言うことです。

仮に、対象を見て写生するのではなく、頭の中で考えて作っていたとしても、左脳俳人のように頭の中で言葉や文字をパズルのように組み立てるのではなく、頭の中に映像を映し出し、それを写生しているのです。

これが、画家の目であり、子規の提唱した俳句の方法論なのです。

絵画の写生の場合は、目の見えるものをそのまま紙に描くわけですが、俳句の写生は、目に見えるものを言葉に変換しなくてはなりません。
そのために、簡単な景色や静止している状況などの場合は良いのですが、対象が複雑な景色や動きをともなっている場合、どうしても説明的になりがちです。しかし、画家の場合は、まるで絵を描くように言葉に変換して行き、もし出来あがった句が自分の映像イメージと違う場合は、適切な表現が見つかるまで推敲するのです。

パソコンの前に座りしりとり俳句を作っていても、頭の中に映像イメージを立ち上げ、それを言葉に変換する人と、ただ単語を組み合わせてパズルのように五七五を作る人がいます。この時、前者は右脳、後者は左脳が働いているのです。

たとえ頭の中だけで作っていたとしても、リアリティーを感じる蕪村や夢二の句。

ちゃんと対象を見ながら作っていても、先入観や観念に支配され、リアリティーの欠落した作品しか作れないを多くの現代俳人たちは、もう一度、蕪村を読み直してみるべきでしょう。
俳句を始めて、ちょっと本格的にやってみたくなった人は、たいていどこかの俳句結社に入会します。
しかし、俳句結社は全国に800以上もあり、そのレベルもピンキリですから、どの結社を選ぶかと言うことが、その人にとって、その後の俳人生命を決定してしまうほど重要なことなのです。それは、俳句に限らず、すべての習い事に共通することですが、初心の時に間違った指導を受けてしまうと、あとからの軌道修正に大変時間が掛かるからです。

たとえば、間違った結社に入会してしまい、そこで5年間指導を受けてから、やっとその結社の間違いに気づいたとします。それから正しい結社に入り直しても、それまでの5年間で染み付いてしまった悪いクセは、なかなか抜けるものではないのです。間違った結社で5年間も洗脳し続けられた人よりも、何も知らないまっさらな状態で入会した初心者のほうが、正しい指導をどんどん吸収し、遥か先へ行ってしまうのです。

つまり、間違った結社に入会してしまった人は、5年間在籍していたとしても、5年以上の遠回りをすることになるのです。

俳句には終わりなどなく、一生勉強し続けて行く文芸です。ですから、たった1年だって、1日だって、1秒だって無駄にはできないのです。

あたしは、間違った結社に何の疑いも持たず、10年も20年も在籍している人たちを見ると、一度きりの大切な人生をなんて無駄にしているんだろうと思って、気の毒になってしまいます。

良い結社を選べは、その人の俳句はどんどん上達し、その結社自体が大きなバックボーンとなります。

しかし、悪い結社を選んでしまったら、間違った指導によってその人の感性や個性は消え去り、それだけでなく、やれ懇親会だ、やれ先輩の出版記念パーティーだと、何かにつけて上納金を巻き上げられてカネヅルにされてしまいます。こんな結社は、バックボーンどころか、弱い者に取り憑くタチの悪い悪霊のようなものです。

結社を選ぶと言うことは、これほど重大な意味を持つことなのに、ほとんどの人は、何も考えないで所属結社を決めているのが現状です。それは、俳句を始めたばかりの人は、世の中にどんな結社があるのか、どんな主宰がいるのかも分からない場合がほとんどで、たいていは、最初に俳句に誘ってくれた人の言うままに、その人の結社に入会してしまうパターンが多いからなのです。
その結社が、たまたま良い結社であれば問題ありませんが、世の中の結社のうち7割は新興宗教系の「洗脳結社」、2割は遊びの延長の「俳句ごっこ結社」であり、ちゃんとした結社は1割にも満たないのです。ですから、自分で選ばずに、他人の言うままに入会してしまうと、9割は失敗してしまうのです。

ひどい人になると、誰かに誘われて結社に入り、入ってから初めてそこの主宰のことを知り、焦って主宰の句集を買って、どんな句を作る人なのかあとから知った、なんて人もいるほどです。結社に入会すると言うことは、その結社の主宰と師弟関係を結ぶことなのです。それなのに、相手がどんな句を作る人かも知らずに弟子になるなんて、呆れてしまって、開いたお口がクチュクチュモンダミンです(笑)
それでは、何も分からない初心者は、どのようにして、たった1割にも満たない「良い結社」を見つければ良いのでしょうか?

一番簡単なのは、あたしに聞くことです(笑)

あたしは、著名な主宰が自分の結社の会員に新人賞をとらせるためにした汚い裏取り引き、有名結社の泥まみれの裏の人間関係、女性会員へのセクハラが日常的なテレビでお馴染みの主宰、弟子の句をパクって総合誌に発表した厚顔無恥な主宰、ストーカー行為を繰り返して警察沙汰になったクセに権力でもみ消した若手のホープなど、俳壇と言う名の悪の巣窟に関することは、すべて知り尽くしています。
この結社の主宰は弟子の句を平気でパクるからやめたほうがいいとか、この結社には○○と言うセクハラ野郎がいるから入らないほうがいいとか、実名をあげてアドバイスします。
この結社は何かと言えば懇親会やパーティーばかり開き、すべての会費が多めに設定してあって、その差額は全部主宰のフトコロに入るからやめたほうがいいとか、そんなアドバイスまでしちゃいます(笑)

さて、笑えない冗談はこれくらいにして、初心者が、自分の目で、良い結社を選ぶポイントをひとつだけアドバイスしましょう。

まず「俳句年鑑」を買います。
これは、角川俳句や俳句研究などから毎年年末に発売になるもので、そろそろ2004年のものが出る時期です。1冊2000円ちょっとしますが、くだらない結社に入ってしまって何十万円も無駄にすることを考えれば、安いものです。

この雑誌には、全国の主要結社、約700が紹介されていて、それぞれの結社の主宰や主要同人のその一年の代表句5句が紹介されています。
それをすべて読み、自分が感銘を受けたり、こんな句を作れるようになりたいなと感じた俳人がいたら、印をつけて行きます。俳人の名前の横には、その人が主宰をつとめていたり、所属している結社の名前が書いてありますので、後ろの結社一覧を見れば、どんな方向性で俳句を作っているのかが、ある程度は分かります。

しかし、ここがポイントなのです。多くの悪徳結社は、新興宗教とほとんど同じシステムで運営していて、一人でも多くの会員を増やし、1円でも多く金を巻き上げようとしています。結社一覧とは、そのための勧誘のページなのです。ですから、悪徳結社が本当のことなど書くわけがありません。みんなキレイゴトばかり書いているのは当然で、初心者がそれを見抜くことは不可能です。

そこで、これはと思ってチェックした結社すべての「見本誌」を取り寄せるのです。
「見本誌」とは、ようするに売れ残った結社誌のことですが、結社によっては無料のところもありますし、500円、1000円とお金を取るところもあります。支払い方法も、郵便為替だったり料金分の切手だったりとマチマチです。

でも、お金なんか払うのはバカバカしいですよね?(笑)

そんなワケで、久しぶりに「きっこ家の食卓」の裏ワザを公開しちゃいましょう♪

ハガキに、「先日、たまたま手にした俳句雑誌で、○○先生(その結社の主宰の名前)の俳句を目にし、とても俳句に興味を覚えました。俳句については何の知識も無いのですが、私のような者でも、俳句を作れるようになるでしょうか?」的なことを書いて、事務所宛てに送るのです。そうすれば、たいていの結社は、タダで見本誌を送って来ます。どこの結社だって、一人でも会員を増やしたいから、必死なんです。
まあ、どんな方法でも構いませんが、とにかく、これはと思った結社の見本誌が揃ったら、まずは主宰の句を読み、それから会員たちの句もすべて目を通します。その時、特に重要なのは、後ろのほうに一番小さな文字でならんでいる一般会員の句なのです。

一般会員の句が、どれも似たようなものばかりで区別がつかないような結社は、「捨て!」です。逆に、一般会員の句が、たとえつまらなくても、バラエティーに富んでいる結社は、「保留!」とします。

結社は主宰がすべてですから、良い結社とは、つまり良い主宰がいる結社と言うことになります。良い主宰とは、ただ作品が素晴らしいだけでなく、正しく俳句を理解し、人間的にも尊敬でき、会員ひとりひとりの感性を尊重し、それぞれの個性を伸ばすような指導ができる人のことです。
自分の考え方を押しつけ、ひとりひとりの個性を奪い、自分の類似品を作るような指導しかできない主宰は、たとえ優秀な俳人だったとしても、優秀な指導者ではありません。

一般会員の欄に、似たような句が並んでいる結社は、ひとりひとりの個性を伸ばすことのできない、指導方法の間違った主宰の結社なのです。こんな結社に入ったところで、どこかで見たような、オリジナリティーのカケラも無い句しか作れるようにならないばかりか、その人の持っていた魅力さえも奪われてしまいます。

誰が、何のために、どうして俳句を作ろうとしているのか。

それを考えれば、どんな結社に入るべきか、見本誌が教えてくれます。

どこかで見たような誰かの類似品を作りたいのなら、俳句など選択せず、プラモデルでも組み立てていれば良いのです。
主宰の書いた設計図通りに、言葉と言う部品を組み立てるだけなら、別にあなたじゃなくても、誰でも良いのですから。

「主宰がすべて」「主宰のお言葉は絶対」、こんなアホな結社に入り、まるで新興宗教の集会のような句会に出席し、どんどん洗脳されて行く人たち。
今日もどこかで、個性の欠落したクローン人間たちが、句会と言う集会場で、類想類句の山をセッセと築き上げています。それはまるで、王様のためにピラミッドを作っている奴隷たちのようで、その異常な光景には恐怖すら覚えてしまいます。

あなたは、人間やめますか?
それとも、結社をやめますか?(笑)

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