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スレッドNo.98

裏第四十四話 寒卵

今回(平成16年1月)のハイヒール句会の兼題は、「寒卵」でした。これは、季語の兼題としては、難しい部類に入ります。

途中から句会に参加している人には申し訳無いのですが、ハイヒール句会の兼題は、毎月テーマを決め、少しずつステップアップして来ました。1年前の第1回の時は、「初雀」を兼題にしました。これは、とても扱いやすく、言うなれば、初心者向きの季語なのです。雀は、目に見え、鳴き声が聞こえ、空を飛びます。ですから、その姿を詠むことも、声を詠むことも、動いている状態を詠むこともできます。つまり、一物でも取り合わせでも、類想類句が発生しにくいのです。

しかし、「寒卵」は、目には見えますが、鳴くこともなければ、自分で動くこともありません。
そして、その姿も単色で単純な形をしているので、とても難しい対象となります。そして何よりも、卵と言うものに対しては、ほとんどの人が同じような先入観を持っています。ですから、こう言った対象の場合は、とても類想類句が生まれやすくなります。

今回、「寒卵」を兼題にしたのは、「写生力の強化」と「類想類句の回避」をテーマとしたからです。この2つは、とても密着した関係にあり、写生力がアップすれば、必然的に類想類句を回避できるようになって行きます。

類想類句については、この俳話でも何度も取り上げて来ましたが、やはり、実際に自分が作句して、句会に投句して、体験してみないと分かりません。しっかりと対象を見て、感じて、推敲して、そして自信を持って投句した句が、たくさんの寒卵の句の中に並ぶと、その光を失い、埋没してしまう。
こう言った体験を経て、少しずつオリジナリティー、つまり、その人の作風と言うものが確立されて行き、類想類句など寄せ付けない力となって行くのです。

今回の投句一覧を見ても分かるように、寒卵の句で多く詠まれるのは、「手」「生命」「朝食」「明け方」「割る」「吸う」「どこかに置かれている状態」などです。たった50人が寒卵を詠んでも、これだけイメージが類似するのですから、日本中の何十万人と言う俳人が詠めば、何十万句と言う類想類句が生まれます。その中には、一字一句同じものもあるでしょう。今回の投句の中にも、もしかしたら、どこかの誰かが作った句と、全く同じものもあるかも知れません。

類想類句を怖れずに作句することは基本ですが、だからと言って、何の努力もせずに、思いついたままを俳句にしていたら、ほとんどの俳句は、過去に誰かが作ったものの類似品になってしまいます。
何故かと言うと、人間の考えることなど、所詮は先入観によって支配されているからです。

しかし、類想類句を避ける目的で、突飛な言葉を斡旋したり、デタラメな描写と取り合わせたりしても、それは本物ではありません。本物の俳句とは、他の人たちと同じ土俵の中で作るものです。

今回、あたしが特選に選んだ寒卵の句の中には、「割る」や「手」など、過去に何十万、何百万と詠まれているであろう描写や対象を使ったものがあります。しかし、それが過去の句と違う点は、作者ならではの視点が存在していると言うことです。

同じものを見て、同じ季語を使って、同じ音数で作句するのですから、似てしまうのは当たり前だと言う人もいます。しかし、だからこそ、できる限り類想類句を避けるように努力することが大切なのです。
せっかく苦労して作った句が、過去の誰かの句と瓜二つだったら、何の価値もありません。そのために必要なのが、写生力を鍛え、「自分だけの視点」を手に入れることなのです。

一見、難しそうに感じるかも知れませんが、人間の個性と言うものは、十人十色であり、1億の人がいれば、1億の個性があるはずです。世界中の人を探してみても、あなたと全く同じ人などいないはずです。それならば、あなただけの視点と言うものも、必ず存在するのです。溢れ返る無駄な情報に流され、作り上げられた先入観に支配され、人と同じ物の見方しかできなくなっているだけなのです。

俳句とは、自分の見たもの、感じたことを「自分の言葉」で詠う詩です。そのために必要なのが、人とは違う「自分だけの視点」です。同じものを見て、同じ季語を使って、同じ音数で作句しても、自分だけの視点を持っていれば、それがオリジナルとなり得るのです。
卵を手に乗せて、ずっと見ていて、本当に「命」だの「宇宙」だのと思った人が、果たしていたでしょうか?
もしいたとしたら、それは、俳句用に左脳が作り出した幻影なのです。何とか寒卵と言う季語で俳句を作ろうとして、視覚に左脳が介入したため、目の前の、自分の手の上の卵が、実は見えていないのです。卵とはこう言うものだ、と言う先入観を捨て去ることができず、前もってインプットされた卵と言うもののイメージの中だけで作句しているのです。

「何とか立派な俳句を作ろう」「一句をものにしよう」などと思いながら対象を見ていてら、たとえ日が暮れるまで見続けていても、対象の本質に到達することはできず、結果、類想類句しか生まれません。欲を出さず、頭を空っぽにして卵を見続けていれば、本当の卵の姿が見えて来るのです。それこそが、誰にも真似のできない、誰の類似でもない、自分だけの視点なのです。「自分だけの視点」を手に入れるための最も確実な方法は、「多作多捨」しかありません。俳人の中には、多作を否定し、うんうん唸りながら一句に時間をかけることを良しとしている人もいますが、そんなもの、あたしに言わせれば俳句のハの字も分かっていない偽者です。

俳句と言うものは、考えれば考えるほど主観の泥沼にはまって行くのです。主観からの脱却こそが俳句の存在理由なのに、唸って作っていたら本末転倒です。何も考えずに、頭を空っぽにして、とにかく一句でも多く作ることです。

推敲には何時間かけようと構いませんが、一句を生み出すのに時間をかけてはいけません。一瞬を切り取り、何時間でも何日でも納得の行くまで推敲する。これが正しい俳句の作り方です。

ですから、目の前の卵を見て、とにかく、どんなにくだらない句でも構いませんから、作って作って作りまくるのです。
対象の本質と言うものは、最低でも、100句や200句は作らないと見えて来ないのです。

多作ができないと言う人は、それなりのレベルの句を作ろうとしているのです。ようするに、まだ心のどこかに、「何とか立派な俳句を作ろう」「一句をものにしよう」と言うスケベ根性が残っているのです。
そう言った欲を捨て、先入観から離脱するために多作をするのですから、最初はそれこそ「寒卵落として割つたら大変だ」とか、こんなもので良いので、何十、何百と作って行くのです。そうすれば、必ず無欲の境地へと辿り着き、対象の本質が見えて来るのです。
俳句とは、75点の句を10句作るものではなく、たとえ99句を無駄にしても、120点の句を1句作るものなのです。
極論を言えば、俳句を作ることなど、どうでも良いのです。
大切なのは、対象を正しく見る目を養うことなのです。そのための訓練のひとつとして、俳句をやっていると考えるべきでしょう。そう考えれば、欲を捨てることができます。

現代は、テレビや週刊誌などからのデタラメな情報が溢れ、人の噂や無駄知識などの雑音だらけで、ほとんどの人の神経が麻痺しています。「自分の目で見て、自分が感じて、そして判断する」、と言う当たり前のことができない人ばかりです。
くだらない噂に振り回され、テレビで紹介されたラーメン屋の行列の最後尾につき、オレオレ詐欺にひっかかり、バカげた壺を買わされています。それは、先入観と言うフィルターを通してしか対象を見られなくなっているために、「自分で判断する」と言うことができないからです。
そのために俳句を勉強しているのに、その俳句の世界にまで外側の雑音を持ち込み、様々な情報によって構築された先入観と言うレンズで「対象の虚像」など見続けていても、類想類句しか生まれて来ないのは当然なのです。

あたしの方法論で行けば、俳句の上達とともに、その人間としての資質も上がって行きます。
どこかの結社には、俳句サイトの掲示板に、偽名を使って他人への誹謗中傷を繰り返すような最低の同人もいますが、その作品を見てみると、人間性と同様に、誰にも見向きもされない類想類句しか作っていません。

正しい方法論さえ実践すれば、俳人としてだけでなく、人間としてもステップアップして行けるのが、俳句と言う文芸なのです。

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