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スレッドNo.1371

対岸の少女とあゆむ春の川

対岸というと角田光代の『対岸の彼女』を思い出す。直木賞受賞作で、芥川賞はほとんどわたくしにはつまらないが(第 1 回受賞作の石川達三の『蒼氓(そうぼう)』が糞つまらなかったからだ)、直木賞はほとんど面白いので『オール読物』に掲載されると目を通していた。確か少女たちが自殺する事件があったことを素材にしていたと記憶するが、女子高生アオちんとナナコが手を取り合って投身自殺の道行が唐突なのに余りにも自然だったので、深い感銘を受けた。日本の女性作家では古典は別として、樋口一葉、幸田文、岡本かの子、仁木悦子、金井美恵子、吉行理恵、高村薫、宮部みゆき、加納朋子、角田光代は溺愛しているというぐらいほとんどの作品を愛読していたが、愛読しているのは小説だけで、金井美恵子と吉行理恵は詩人でもあるので詩集も作品なので読んでいるが、作家本人の実生活に関わる資料は全く興味ないので作家の顔写真すら知らない作家も多い。「ボヴァリー夫人は私だ」というフローベールの言葉通り作品が作家の顔だという作品主義なので、角田光代も顔すら知らないが、このアオちんとナナコのリアリティは素晴らしかった。フィクションでなければ出会えない感動で、ひとはそれを「真実」と言う。現実にあるのは「事実」だけだ。

ただこの句の少女はアオちんとナナコではなく、五十年位前か、大洗で板金工をしているときに常澄村の鍍金工場に寄って帰る途上の涸沼川にかかる平戸橋の側の飯屋で昼餉を済ましたあと、川沿いに歩いていた時に対岸を歩いていた少女の姿を思い出したからだ。小学生か中学生くらいの少女だったが、川沿いに留められた小型漁船を見ているうちに川靄に紛れて消えてしまったので、全く無縁の対岸の少女が夢のように思われたので記憶のどこかに沈んでいた風景が蘇ったのだろう。世界一長いプルーストの『失われた時を求めて』の最後に語られる「無意志的記憶」のようなもので、夏場に冬の句がどかんと来ることがあると加藤郁也も言っていたから「無意志的記憶」が俳句を呼ぶこともあると感じたのを面白く思ったので記しておく。

引用して返信編集・削除(編集済: 2023年03月17日 10:52)

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