白桃の西のお尻をがぶつとな
ハジメ1018さんの「桃」につなごうと桃の句の思案がなって岸本尚毅について書き始めたら、水曜日なので★ きっこのメルマガ ★第180号が7:00に着信し、これを読んでいたらこれが★ 今週の前口上 ★「萩生田光一改め萩生田統一」 の政治ネタ、★ 今週のトピック ★「眠れる?森の美女」の古典文法ネタ、★ 季節の言葉 ★ の「相撲」俳句ネタ と盛り沢山で、「蚤虱馬が尿(ばり)する枕元 芭蕉」の馬のゆばりよりも長く、小学校の登校時に坂の下に止められていた馬がじゃぼじゃぼ放尿を始め、それが見る見るうちに潦(にわたずみ)を作って驚きましたが、遅刻するのでし終わるまで見ていませんが、メルマガを読んでいて、しりとりする時間がなくなるほどの時間経過で、慌ててお客に遅刻すると出かけたので「桃」つなぎでお許しを。
>自分の憧れる師の作風を模倣することと、精神性のみを受け継いで自身の作風を確立することのどちらが良いのか、あたしには分かりません。
岸本尚毅は俳句に貪欲なので爽波俳句を学ぶことで爽波の限界を知り、師を越えて自分の俳句を詠むために虚子を次の、というか最終的な踏み台にしているので、もともと爽波俳句に留まる気はなかったように思います。
岸本尚毅の第五句集『小(せう)』は2014年(平成26年)3月25日に角川学芸出版から発売されて、自選句、
面白く聞きて涼しく忘れけり
に代表されるような、ふてぶてしいまでに「や」「かな」「けり」の三大切字が盛大に使われていて、一ページに「や」「かな」「けり」が複数あるのは当たり前、中には見開き六句中五句が「かな」という最大切字が並びます。2005年の9月の句会できっこさんの出したお題が「や」「かな」「けり」の三大切字を一句づつ詠むという「切痔句会」、じゃなかった「切字句会」の中学校句会を開催し、二物なんたらとか三句切れの疣痔がどうしたとか観音開きだか鯵の開きだか大股開きだか知らないがしちめんどくさいルールより「かな」の一物仕立てがすっきりして一番のお気に入りで、次に途中に軽い切れが入っても許される「けり」が好きで「や」は歌舞伎の見得のようだなと使えば納まりがいいので三番目に使う切字という順番で、何でもかでも切りまくっていたら、バカの一つ覚えみたいに「かな」「けり」で終わるのではなくて違う切れで終わる詠み方を覚えましょうときっこさんが指導方針を切り替えたので、きっこさんの言うことは絶対だったから(このレベルまで行ったから次はこのレベルへと指導は的確を極めていました)、「や」「かな」「けり」を封印しました。それがああた、岸本尚毅の『小』は、兎波さんの棲家よりももっと奥能登のホテルのベランダから一面広大な森が海まで続く空をカナカナが一斉に鳴き喚くように「かな」「かな」俳句がどーんと並んだのですから嬉しいの何の。ということで岸本尚毅の蜩(ひぐらし)の森を、お聴き下さい。勿論「や」蝉も「けり」蝉も鳴く蝉時雨です♪
俳句に負担をかけない詠み方に徹していますが、その俳句の風貌には爽波の作風とは違う作風が見えて来ます。ⅠからⅣのⅠの117句中三大切字は53句、45%を越えます。これは明らかに爽波のリズムではありません。
日の暮の明るくも冴返りけり
たつぷりと水ある春の氷かな
白妙の富士ある春の起伏かな
磯遊びめきたる春の墓参かな
三日月の光りて遠き彼岸かな
逃げ水や蚯蚓土龍の居るところ
春めくやどこへゆくにもこの姿
草餅や春風亭の新作派
春嵐怖るることはなかりけり
頭から肘へつたはる甘茶かな
猫の如く色さまざまの浅蜊かな
夏蜜柑腐りて尻の抜けにけり
遅き藤やませの霧の向うかな
めぐり来し月日は夏や古簾
がんばつてゐる噴水の機械かな
黒南風に芋の葉らしくなりにけり
梅雨の蜂赤き面を上げにけり
黴を寄せまじく貧乏揺すりかな
鰭振つて顔ばかりなる金魚かな
この暗さ夕立来ねばならぬかな
雷の来さうな道を曲りけり
緑陰や無心の蝶と無我の蠅
風が吹く長きほつれも茅の輪かな
町角や西日のバナナうまさうに
そのかみの色街近き夜釣かな
蝙蝠や落ち来る如く来ては去り
七夕や正しきことを願ひたる
掃苔や何の木となくよき木陰
新涼の日輪や今盛りなる
新涼や肘より遠きたなごころ
長き腹曲げて戻して螇蚸かな *螇蚸(ばった)
秋風や土の上なる木のお堂
月の友のつしのつしと畳かな
麵麭を手にゑのころ草に立つ子かな *麵麭(ぱん)
菊なべて黄と紫やかへりみる
音かすかなる飛行機や柳散る
悦びて嚙み合ふ犬や落葉道
南面の落葉溜りも日暮かな
大綿の頭や少し尖りたる
短日や四方に顔ある時計台
冬晴や廃屋も窓輝きて
枯蔓や糸の如くにまつすぐに
熱燗や愛嬌はあり風情なく
初凪や古城の如く遠き町
言の葉の一つ一つや手鞠歌
初春や明るきままに日は西に
湯気の粒見えてめでたき初湯かな
初寄席や松喬はたして花筏
寒晴や高さそれぞれ月と鳥
遠く行く声や焼いも焼いもと
湯たんぽの重たく音もなかりけり
炉に焼いて舌舐めづりや薬喰
一つかみ虚空に豆を打ちにけり
これらに漂う作風は高浜虚子のように思うのですが。岸本尚毅は現代の高浜虚子たらんとしているのではないでしょうか。