ガードルに尻を詰め込む白露かな
猫髭さん、なかなか面白い視点からの岸本俳句の解釈、とてもいいですね。
でも、岸本尚毅の強い切れ字の多様を「虚子たらん」との見方は、虚子を大きく見過ぎていると思います。
あたしから見れば、岸本尚毅は余裕で虚子を超えています。
たとえば、猫髭さんの引いた句の中から「や」を用いた五句を見ると、
短日や四方に顔ある時計台 岸本尚毅
冬晴や廃屋も窓輝きて 〃
枯蔓や糸の如くにまつすぐに 〃
熱燗や愛嬌はあり風情なく 〃
初凪や古城の如く遠き町 〃
一句目は、「短日」と「時計」というツキスギの具材に距離を持たせるための戦略的な「や」。
二句目は、句末の「て」で上五に輪廻させて、冬の太陽の眩しさをより増幅させるための技巧的な「や」。
三句目は、発見が希薄で一物で詠んでもインパクトがないため、無理やりに二章構成にするための負け犬的な「や」。
四句目は、ぼんやりした日常の景に、立体的なメリハリを持たせて抒情を浮きだたせるための定番の「や」。
五句目は、先に情景のフレーズが浮かび、それに合う季語を後から探したことによる、極めて流動的な「や」。
これらの「や」の使い方は、虚子とは大きく乖離しています。
それでは、虚子の「や」を見てみましょう。
春風や闘志いだきて丘に立つ 高浜虚子
夏立つや忍に水をやりしより 〃
秋風や眼中のもの皆俳句 〃
冬晴や立ちて八つ岳(やつ)を見浅間を見 〃
春夏秋冬の句を一句ずつ引きましたが、これらの句の「や」は、大して季語には掛かっていません。
一句目の「や」は「春風」ではなく「春風」を受けて丘に立っている自分に掛かっているのです。
二句目の「や」も、釣り忍に水をやって夏の訪れを実感した自分自身に掛かっていますし、三句目も四句目も同様です。
虚子にとっての強い切れ字は、表向きは一般的な俳句の技巧として使われていますが、それぞれの句の本意にまで迫ると、その情景を発見した「俺様」に掛かっているのです。
花鳥諷詠だ客観写生だと言いながら、常に自分の力量をアピールしたくてウズウズしていた虚子ですから、強い切れ字は「俺様」を際立たせるための便利なアイテムだったのです。
一方、同じ「や」という切れ字でも、それぞれの句ごとに「や」の持つ多様性を必要に応じて使い分けている岸本尚毅は、高速のストレートと同じフォームからのチェンジアップをベースに、大きく落ちる高速フォークや緩いカーブ、縦横のスライダーからシンカーまで投げ分ける無敵のピッチャーです。
そして、それは、本当の意味での「客観写生」というマウンドに立てたからこその采配なのです。
俳句は、他者と優劣を競うものではありませんし、食べ物や音楽のように読み手の嗜好もありますので、それぞれの句の評価は人それぞれです。
でも、たとえば「俳句の技術的な面」だけに絞れば、あたしは、虚子より岸本尚毅のほうが優れていると思っています。