糞尿の話題は永久に秋の暮
本来は汚くて臭くて穢らわしく、人目をはばかるから便所は「憚(はばか)り」と呼ばれていたほどで、尿の出所も「秘部」「陰部」「恥部」などと言われる日陰者で(「日陰にあるのに色黒し~」というのはちんぽこ七不思議の一番目である。ちなみに二番目は「ゴムでもないのに伸び縮み~」である)、現代では露出しただけで(TPOにも寄るが)猥褻物陳列罪に問われるという取扱危険部位であるが、じゃあ何で犬や猫は尻の穴おっぴろげて歩いてそこら中で糞尿撒き散らしても取り締まらないどころか飼主の罪になるのかと言われても困るが、ヘルパーはお客が自立できるための三つの要素「食事・排泄・睡眠の自立」のひとつとして排泄介助が仕事だから毎日何件も十年続けると優に一万回を軽く超えるので自立支援の身体介護の最初の項目の「排泄」は便の状態から色から微細にわたって健康と自立のための記録が必須となっており、真剣に糞尿と向き合うので、お客にも必ずその由を伝えます。嘔吐物が黄色か黄緑か、黒い血が混じった下血がないかなど、見過ごすと命に関わるので普段と違う場合は緊急報告の義務があるのです。例えば嘔吐に黄緑が混じっている場合、胃液ではなく胆汁が混じっている可能性が高く腸閉塞の恐れがあり、看護士、医者経由で確認を取って搬送しないと急性の場合重篤であり命に関わります。ヘルパーは医療行為は出来ないので看護士経由医者というルート指示になるが、間に責任を取りたくない三流ケアマネが入ると急性の場合もたついて腸が壊死して全摘になるか死亡に至るので、下痢や嘔吐の色などは目視で異常を察知する経験は重要で「今日も健康黄色いうんち!」とお客を笑わせながらも糞尿のチェックはとても大事で、生死の境だけでなく、死の責任の所在も問われるのでおろそかにはできません。
急死の場合、病院で死んだ場合と自宅で死んだ場合では病死か事故死かで揉めることがあり、事前に死の予兆に気づかなかったかどうかは遺族とケア会社で責任の押し付け合いにもなるし、遺族にとっては最善を尽くせたかどうかで悔いが残る場合もある。自宅で家族に囲まれて慕われ惜しまれながら看取られて自然死を迎えるのが理想ですが、なかなか生死の境を見極めるのは難しく、わたくしのように医者が匙を投げた末期の客専門のヘルパーの役目として本人と遺族の「死の受容」の橋渡しということもあります。「死の受容」ということは「生の受容」ということでもあるのです。まんざら悪いという人生でもなかったという生の受容は安らかに死を受容できることと同じだとわたくしは思っています。「生」という未知の世界に生まれることと「死」という未知の世界へ旅立つことは「未知の世界へ入る」という意味では構造的に同じで「生」が生きてみなければわからないのと同じように「死」も死んでみなければわからない世界です。
生死の境から生き返った者たちの話は世界中に沢山あるが、実際に生き返る見込みもないと宣告された本人から聴いた話で面白いと思ったのは、ベッドに横たわっている瀕死の自分を病室の上から見ている(客観視している)自分がいて、浮遊して外へ出ると病院の同僚たちが煙草を吸いながら香典の額を話し合っているシーンが見えて憤慨しているといった幽体離脱の話で、奇跡的に生き返った男が同僚たちに香典の額をお前はこのくらいで、いや一律いくらでいいんじゃないかとお前が言ったと、絶対聴こえるはずがない離れた場所の会話を正確に難詰したので同僚たちが驚いたといった話で、極限状態の人間の脳が作り出した妄想だとしても人間の脳には未知の能力が潜在性としてあり第六感のように第七第八の能力があるのではないかと思うと、優れた天才と呼ばれる者たちは天性の能力を授かったと言えなくもない。
視・聴・嗅 ・味・触の五感を超えた第六感というインスピレーションを彼らは縦横に駆使出来たので、詩人は最もインスピレーションが高く、次に宗教家や哲学者や小説家や音楽家や画家や彫刻家やその他もろもろのその末席に俳人がいて、これは末席だからわたくしのようなインスピレーションが乏しい凡人でも「多作多捨」「多読多憶」を繰り返すことで「匹夫も志を奪うべからず(一個の平凡人でも、その人の自由な意志を奪うことはできない)」(『論語』子罕第九 25)と稀に佳句を詠むことができて幸甚の至りというわけだ。
というわけで話はがらがらと音を立てて変わるが、頻尿の話をすると(ここで出て来るんかい!)、わたくしも頻尿にはほとほと困り、介護中はノンストップだから、薄型おむつを穿いたり尿とりパットをつけたり百均の『ノコギリヤシ』を飲んだりしたが、結局一番効いたのは糖分を控えたことだった。目まいや貧血や動悸も重なり、最初は老化現象と歳のせいにしていたが、血糖値が340と末期の糖尿病重篤患者と指定されて、冗談は良子さんで(林家三平師匠のネタ)一日三合半の群馬県川場村こしひかり「雪ほたか」(日本一高くておいしい米。皇室御用達で「天皇陛下の米」と食べたお客から呼ばれる)の爆食いと一度に18個の栃木県佐野市あわしま堂の黒糖饅頭爆食いを控えて、富山県こしひかりともち麦と十六穀米のブレンドにして二日で四合にしたところ、玄米に近い食感でよく噛まないといけないので咀嚼時間が長くなった分、空腹感のうちにガーッと食う戦時中の兵隊のような食い方(父曰く)ではなくなり、消化が良くなったのか、血糖値は120に激減し、体重も79キロから66キロに無理なく落ちて、めまいも動悸も頻尿も治まりました。
糖尿病は他の病気を併発するし、一度糖尿になったら一生もんだと言われていたので、医者も目を白黒させていましたが、わたくしは白米が大好きで一度にうどん用どんぶりで三杯食うので、次の日の朝の卵かけ御飯用かそぼろ納豆茶漬用か鯵の干物用に普通の大茶碗一杯分しか残らないので、仕事がハードな分、ダンプカーにガソリンが必要ということでしょう。饅頭は母が死んでからどういうわけか母の主食に近い味噌饅頭が憑いたらしく食べるようになりましたが、父を看取った時は左耳の耳鳴りが憑いたので耳鳴りが父の形見で、母の形見は黒糖饅頭ということになりますな。(*^▽^*)ゞ。
なお、「鑑賞のお部屋」を20件追加しました。怪盗えびすさんが爽波の句をエリック・サティに喩えたので、エリック・サティの曲をBGMに追加しました。ハイヒール図書館の遊び心です。サティの音楽は映画ではルイ・マル監督、モーリス・ロネ主演『鬼火』(1963年)が白黒映画で暗い内容ですが、サティの音楽が劇的な場面で響き渡り、わたくしは大好きでビデオでも持っています。モーリス・ロネがかっこいいの何の。
写真は横須賀海軍カレー本舗名物「横須賀海軍チキンカツビッグカレー砲 Featuring戦艦三笠」で頼むと軍艦マーチが鳴り響いて運ばれます。(*^▽^*)ゞ。