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スレッドNo.837

寒暁を啄ばむ声に起こさるゝ

チチチチという声なので雀だと思うが、杉並の妙正寺川の側に住んでいるし車椅子介助は善福寺川だから通し鴨の軽鴨は年中見られるが季節の渡り鳥も水鳥を中心に飛来するから雀が珍しいほどバードウィッチングには向いているので珍しい鳥も来るのでカメラマンの姿も絶えないから、地味な雀は黙殺されるので、雀の好きなわたくしは寂しかったが、そうか朝の挨拶は雀か、そう言えば妙正寺に移って来てからは多いと気づいた。前住んでいた善福寺川は氾濫警報が台風の度に夜中でも鳴るので津波で逃げて来たのに出水ではかなわんと妙正寺の高台に引っ越したが椋鳥と鵯がキュルキュルヒーヒーとけたたましく、逗子鎌倉の時は鶯の声のでかさに辟易していたから、雀の声は落ち着く。泉鏡花の『鏡花短篇集』 (岩波文庫)に入っている「二、三羽―十二、三羽」など絶品であるが、代表作のひとつ『春昼・春昼後刻 』は鏡花が住んでいた岩殿寺を舞台にしており、ここは家から近くよく長女を抱っこして散歩しており、彼が寄進した池は雌の翡翠が棲んでいて、どういうわけかわたくしが顔を出すと必ず出て来てくれたので、今思えばすごい環境に暮らしていたということになるが、住めば都で妙正寺もまた自然の移ろいを楽しませてくれる。

昨日は原石鼎を顕彰する俳人(俳誌代表)に請われて原石鼎の旧居をともに探訪したが、麻布本村町から大磯に引っ越すまでの本村町116番地が戦争を挟んでいるので特定不明で広尾の有栖川公園にある日本最大の都立図書館で再度古地図を調べた。この時期都立図書館はどこも館内工事の時期なので自分で直接調べることが出来ず館員を通して戦前と戦後の古地図を持って来てもらい探しまくるという気の遠くなるような作業で、代表はもう十年近く調査していたが不明だということで諦めかけていたのを、そこは名探偵きっコナンの弟子のしつこさでは鬼も逃げ出すという迷探偵猫髭なので、代表が諦めかけても諦めない。

代表の情報では、神田に文具店「オカモトヤ」という有名な店があり、この創立者が鈴木芳如(すずき・ほうじょ)という俳号を持つ女性で、原石鼎や松本たけしにも師事して神奈川県大磯町にある鴫立庵の18世庵主になって句誌も主宰し、かの中村汀女も参加しており、毎年三月に行われる大磯町の「西行忌」も芳如の発案と云われるから明治の女性って凄いヴァイタリティがあると驚くほどの人物だが、彼女の自伝『あの頃』に彼女が原石鼎が大磯に移る前、石鼎夫妻の住まいを芳如が買い取ったことが記されており、鈴木芳如の住まいがわかれば石鼎の旧居もわかるという代表の読みが藁にもすがる一縷の望みだった。鈴木という名前は沢山あってどれが本命かわからないが、三時間ほどかけて本村小学校の横に鈴木名義でほにゃらら編集部とあるのが目に止まった。わたくしは目が悪いので代表に、

  これ編集部と書いてあるみたいだけどその前のこおろぎってなあに?
  芳如の主宰する俳誌の名前で「こよろぎ」よ。住所も116とあるから間違いない!

もう代表と図書館の係員と一緒に手をとって喜び合いました。「じゃあ行ってみましょう」と暮れなずむ麻布の丘で、ここに石鼎が居たのねと代表はしみじみと喜び、わたくしは敬愛する須賀敦子の『遠い朝の本たち』の「ひらひらと七月の蝶」で書かれていた「家のとなりで、いつも庭に立って、空を見てた、じじむさいおじいさん」「うるさくてこわいおじいさん」が原石鼎だったことを確認したのである。

  夕月に七月の蝶のぼりけり 原石鼎 昭和25年

わたくしが全作品を、初めて掲載されたオリベッティ社の文化誌「SPAZIO」から単行本、翻訳本を収集し、全集を愛読しているイタリア文学者の須賀敦子は芦屋出身で「西宮文学回廊」には、彼女のプロフィールに、

プロフィール 1929年1月19日(戸籍上は2月1日)~1998年3月20日
西宮・東京で育つ。東京では俳人原石鼎の隣家に住んだ。
日本の随筆家・イタリア文学者。20代後半から30代が終わるまでイタリアで過ごし、40代はいわゆる専業非常勤講師として過ごす。50代以降、イタリア文学の翻訳者として脚光を浴び、50代後半からは随筆家としても注目を浴びた。2014年には、イタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。

と記されている。「東京では俳人原石鼎の隣家に住んだ」と記されているが、実に、その旧跡が特定されたのは昨日が初めてなのである。

写真は広尾駅1番出口有栖川公園。

引用して返信編集・削除(編集済: 2022年11月30日 18:32)

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