ほどほどを知らぬ男や大晦日
ほどほど。うーむ、わたくしの辞書には載ってない。昨日も一昨日も店の酒がなくなると梯子して次の店も店の酒呑み干して、しょうがないからもう帰るかという飲み方で、まあ、これは呑んだ友だちがみんな前世はうわばみではないかという顔ぶれだからしょうがない。ほどほどの呑み方、馬鹿野郎、酒に失礼であるぞ、呑み残すなど、ということを若き日に吉田茂の長男吉田健一先生に教わったせいである。
とはいえ、三人で三升呑むから、例えば日本酒は「銀嶺立山」しか置いていないとか、うちは豊後だから「一の井手」一本という店でないとなかなか心ゆくまで呑むことが出来ないので必然的に行く店は限られる。しかも酒の肴にも五月蠅いから、この酒を呑むとこれが実に旨くなるという肴、この肴を含むとこれが実にうまくなる酒という相乗効果の酒と肴は結局郷土料理ということになり、その土地の酒で味付けされたその土地の料理との組み合わせに如くはないというところに落ち着く。
古稀を越えて酒を酌み交わして時間が経つのを忘れる呑み友がいるということは老残の人生の夕日には欠かせない。わたくしには男も女も呑み友がいて、呑み友はみなわたくしより年上だが、酒に弱い飲み友もいて、こちらも相手はわたくしよりも年上だが、相手は酒は舐める程度だが料理は健啖家で小食と言いながらぱくぱく食うから食いしんぼのたぐいで、なぜ酒の店に付き合うかというと、わたくしが余りにも旨そうに酒を呑むのでちょっと味見させてと舐めるのである。
というわけで数え日は忘年会でどこも満員だが、わたくしは気に入ると毎月通うし、ランチでもソトメシは毎週通って十年、二十年、晩飯のソトメシになると毎月四十年以上、中華街では五十年となると頼まなくても色々出て来るので、代が替わっても昔の味を覚えているお客として息子の代も歓迎される。海外でもレストランだけでなく、本屋やレコード屋や靴屋など気に入ると出張で年数回、下手したら一回くらいしか顔を出さないのに三十年通うと国内の客よりも贔屓にしてくれると上客扱いで逆にこっちが恐縮するほどである。だから、何をやってもほどほどと自分では思っても、たまに顔を出してもそれが何十年も続けば相手にとっては長年の御贔屓の客で、わざわざ日本から食いに来るとか買いに来るとか勘違いされるらしい。出張のついでに寄っただけなのに、ホームパーティに呼ばれたり、犬や子どもの相手させられたり(犬は鳴き声はわんわんではなくバウワウだが英語を話す必要ないから子犬の時から遊んであげると老犬になっても覚えているので飛び掛って来て舐めまくられるが、子どもの癖に自立させて大人扱いされるからみな大人顔負けの会話をする)、ほどほどががっつりとなるので、先週も障害者たちと車椅子散歩で七年近く顔見知りになった電動車椅子や松葉杖の老人たちのクリスマス会に呼ばれてトイレ介助しながら飲み会をやったら盛り上がりまくって、個人的な飲み会にも来てよと誘われて、ヘルパーが障碍者に酒飲ませてるとチクラレルから駄目だよとさすがに断ったが、なんで誘われるかなあと首を捻るが、車椅子介護の家族が「人柄よ」と笑っていたから、「生命体には人間と動物と猫髭がいる」と言われ続けて、やっと「人間」の仲間入りをしたということか。感無量。
というわけで、俳句を詠むのだけほどほどかもという一年でした。
きっこさんも皆さんも良いお年をお迎え下さい。
わたくしはこれから井岡一翔のボクシング世界戦観戦と韓国ドラマ『還魂』第二部第七話の配信を見ながら、また酔っ払うのね。
写真は東京の臍「大宮八幡宮」の笹の輪くぐり。茅の輪くぐり以外に笹の輪があったとは。