ランボーが詩てふ血を吐き秋の蝶
皆さん、こんばんは。
あたしを含めて、人には皆、多かれ少なかれ「自己顕示欲」があります。
他人に認めてもらいたい、他人に褒めてもらいたいという心理です。
そして、その多くは「自分に対する不安」から発生しているのです。
心理学によると、自分に自信のない人に限って、この「自己顕示欲」が強い傾向があるそうです。
自分に自信がないから、誰かに認めてもらうことで、その不安を解消したい、その穴埋めをしたいのです。
これを「自己承認欲求」と言い、最近ではSNSで他人からの「いいね」を貰うために、バカバカしい画像や動画を投稿し続けている人たちが顕著です。
このタイプの人が俳句を始めると、俗に言う「点取り俳句」へ向かってしまいます。
句会で高得点を取ること、師から褒められること、自分の在籍する俳句結社で同期入会した仲間より先に頭角を現わすこと。
こんなくだらないことが俳句の目的になってしまえば、その人の俳句は、当然、技巧ばかりに走ってしまいます。
でも、俳句って、そんなくだらない文芸ではありません。
他人から認められるため、他人から褒められるために俳句を詠んでいるなんて、これほど悲しく残念なことはありません。
「自己認識欲求」を満たしたいだけの人は、俳句以外の手段でやってほしいです。
あたしの愛する俳句の世界に、俳句とは正反対に位置する「俺が俺が」の自己顕示欲など、そんな薄汚いものは持ち込まないでほしいのです。
俳句って、もっと純粋でキラキラした世界なのです。
あたしは今年で五十歳になりますが、六十歳になっても、七十歳になっても、八十歳になっても、子どもの頃の純粋な気持ちを持ち続けるためのアイテム、一生をキラキラしながら、楽しみながら生きて行くための大切なアイテムなのです。
子どもの頃、道端の草花にしゃがみ込んでは飽きるまで観察し、天道虫を見つけては人差指を上らせて大空へと飛ばした日々。
こうした日々は、多くの人たちが経験しているはずなのに、この「小さな日常の発見」に目をキラキラとさせていた純粋な感性は、多くの場合、大人になるまでに枯れて行きます。
そして、草花や虫などを平気で踏み潰して行く「悲しい大人」になってしまうのです。
でも、本物の俳句を身に付けている人たちは、何歳になろうとも、決して自分が少年少女だった時の感性を忘れてはいません。
名も知れぬ路傍の草花にも、害虫と呼ばれて毛嫌いされている小さな虫たちにも、そこに「命のきらめき」と「季節の移ろい」を感じ取り、十七音の「小さな挨拶」を送っているのです。
これが「俳句を詠む」ということであり、俳句が「季節への挨拶」と言われる所以です。
この「しりとり俳句」という掲示板は、事実だけでなく想像やギャグなど「何でもあり」の「座」です。
しかし、それは、皆さん一人一人の俳句力をアップさせるための「寺子屋」のような位置づけなのです。
この「座」に参加し続けることで、皆さんの発想力や構成力など、つまりは俳句の地力が自然と磨かれて行き、最終的に、ご自分の作句の大きな「糧」となるのです。
長々と講釈を垂れてしまいましたが、せっかく同じ「座」に集ったのですから、皆さん、単に「前の人の句の中の言葉をつなぐ」というだけでなく、もっともっと冒険してみてほしいと思います。
あたしは「!」や「?」を使ってみたり、季語を根底からひっくり返してみたり、けっこう冒険してますよ♪