西日さしそこ動かせぬものばかり 爽波
投稿日: 2月22日(日)02時29分36秒
第四句集以降の平成1年の作品です。
部屋のあちこちに、積み上げられた書物の山があります。
他人から見ると、それは乱雑に積まれたように見えますが、本人にしてみると、すべて、どこに何があるのか分かっているのです。
キチンと片付けてしまうと、逆に分からなくなってしまうため、家人も勝手に片付けることはできません。
過去に一度、本人の留守中に勝手に片付けてしまい、ものすごい剣幕で怒鳴られてからは、家人は一切、手を触れていません。
あたしは、最初にこの句を読んだ時、このような景を想像しました。
しかし、「本」とは限定せずに「もの」と言っているのですから、他にも色々なものがあるのでしょう。
俳句鑑賞のルールから外れ、作者の背景を考えてみると、爽波は、机の上の1枚の書類ですら、斜めに置かれることを嫌ったような性格だったので、自宅でも、 ここにはこれ、あそこにはあれ、と言った具合に、決まった場所に決まったものが決まった形で置いていないと、落ち着いていられなかったのだと思います。
そんな自分の性格を理解していて、分かっているのに直すことができない自分と、直す必要などないと思う自分がいるのです。
「そこ動かせぬもの」とは、目に見えている「もの」だけではなく、そんな自分の性格をも表現しているのです。
そのあたりの自己認識や葛藤ですら、直接的には表現せず、写生と言う形をとって暗喩させているのです。
作者の性格を知った上で鑑賞すると、動かせぬ諸々のものを見ながら、そんな自分自身にもうんざりしている爽波の顔が、西日の中に浮かんで来ます。
しかし、俳句は、作者の背景とは切り離して鑑賞するものですから、最初のあたしの鑑賞でも、また別の鑑賞でも、決して間違いではありません。
もしかすると、爽波自身も、この暗喩は自分自身に向けてのものであって、不特定多数の読み手には、分からないように底流させたのでは?とも思えて来ます。