波多野爽波の墓所は京都市左京区岩倉幡枝町にある臨済宗妙心寺派の寺院圓通寺(えんつうじ)。
掃苔に修したのは平成23年(2011年)10月16日。爽波の忌日10月18日の二日前のことです。秋晴れの良い天気に恵まれました。
「夜の湖の暗きを流れ桐一葉」の句碑が添えられているそうですが気づきませんでした。隣に黒川弥太郎のお墓があったので子どものころの贔屓俳優でしたので、こんな御縁があるとはと浮かれていたバチアタリで、しかし、黒川弥太郎は横浜生まれで浅草で「極付国定忠治 一本刀土俵入り」の稽古中に脳溢血で倒れたので、いま思うと同姓同名の他人かも知れません。これだから映画ファンはミーハーで困ります。
写真上段色紙右より
骰子の一の目赤し春の山
山吹の黄を挟みゐる障子かな
鶴凍てて花の如きを糞りにけり
赤ん坊の尻持ち上ぐる冬座敷
下段短冊右より
白魚の夕べは溯る畑の梅
櫻貝長き翼の海の星
チューリップ花びら外れかけてをり
ちぎり捨てあり山吹の花と葉と
波音の大王岬の蚊と生れ
夜の湖の暗きを流れ桐一葉
小寒のひらと葉書の来たる見え
炬燵出て歩いてゆけば嵐山
天ぷらの海老の尾赤き冬の空
避寒して刀目利といふ人と
師三人並び現れ寒稽古
第一句集『舗道の花』書林新甲鳥(昭和俳句叢書8) 昭和31年(1956年)
第二句集『湯呑』現代俳句協会(現代俳句の一〇〇冊) 昭和56年(1981年)
第三句集『骰子 句集』角川書店(現代俳句叢書) 昭和61年(1986年)
第四句集『一筆 句集』角川書店 平成2年(1990年)
『花神コレクション 波多野爽波』花神社 平成4年(1992年)
『季語別波多野爽波句集』
『現代俳句全集 四』昭和52年(1977年) 立風書房
NHK俳句講座聞書 西野文代『爽波ノート』文編集部 「文 創刊五年目の記念として」 平成15年(2003年)
『波多野爽波全集』全3巻 邑書林 平成4年(1992年)-平成10年(1998年)
投稿日: 2004年(平成16年)3月 1日(月)01時43分16秒
2月1日に、このコーナーをスタートさせ、第1回目は「波多野爽波」を取り上げました。
ひとりの俳人にどれくらいの時間をかけるのかは、決めずにスタートしましたが、今日でちょうど1ヶ月になりましたので、そろそろ次の俳人に移りたいと思います。
あたしが、何故、このコーナーで最初に爽波を取り上げたのか、その意味がまったく分からなかった人もいると思います。
俳句に限らず、すべての表現方法、表現手段というものは、決してオールマイティーではありませんから、それは当然のことです。
しかし、多くの人は、このコーナーで爽波と言う俳人を知り、爽波の作品と出会い、何らかの気づきがあったはずだとあたしは信じています。
最後に、第一句集「鋪道の花」に書かれた爽波の言葉をもって、この項を終えたいと思います。
「写生の世界は自由闊達の世界である。」 波多野爽波
投稿日: 2月26日(木)17時50分5秒
川柳になっても俳句になり難い材料を、鮮やかに決めてくれました。爽波の諧謔の精神は筋金入りですね。内田百閒の随筆のような可笑しさがあります。
それにしても猫髭さんの俳論は読ませます。
滝見えて滝見る人も見えてきし 爽波
山道から見下ろしているんでしょうね。なんと大きな滝なんだろうと。そして滝壺まで視線を下すと、豆粒のような人が見えるではないか。句を巧く詠んで人に褒めてもらおうなんて思わなかった人じゃないですかね?詠まずにいられない、そこに感動があるから詠む、みたいな。
投稿日: 2月25日(水)11時46分25秒
東京駅八重洲口前に大きなブックセンターがあり、入って右下が俳句・短歌・詩のコーナーになっている。横浜そごうの有隣堂と並んで俳句関連では充実しているほうだと思う。持っている「現代俳句全集」中の爽波自選四百句以外に、もう少し読んでおきたいと隅から隅まで探したが、爽波の句集は一冊もなかった。紀伊国屋WEBを検索したら一冊1万5千円の爽波全集全三巻と廉価版は花神コレクション一冊のみなので、これが置いてなければ、アンソロジーに組み入れられているものを拾い集めるしかない。とはいえ、アンソロジーも平井照敏『現代の俳句』、高橋睦郎『百人一句』、大岡 信『百人百句』、俳句研究編『現代俳句の世界』には爽波は取り上げられていない。川名大『現代俳句』と『現代俳句全集』第四巻のみである。きっこさんが言っていた爽波の評価が低いというのはこういう現実を言うのか。あとは古本屋であさりちゃんするしかない。死人よりも生きている新人を喜ぶほうだから、目くじらを立てるほどではない。今回も自選四百句のみからの感賞となる。
爽波の自選は、『鋪道の花』十四年間の営為からはたった三十句である。最初のページに十句がある。ここ一ヶ月毎日通勤の途上で見ている。わたくしの読書は 風景を見るのと似ている。ただ見る。気に入ると繰り返し読む。そうするとあるとき向こうから語りかけてくるものがある。ああ、そういう意味だったのかと合点がいくことが何十年かぶりに来るときがよくある。子どもの頃百人一首を意味もわからず覚えて長じて自然と意味がわかることに似ている。無理にわかろうとすることはない。何度も何度も読んでいるうちに、ふと得心が行く、それしかわたくしの場合、読むことにおいて自分の言葉が相手に出会う道は無い。
芒枯れ少しまじれる芦も枯れ
鋪道濡れ散りし柳の乾きをり
滝見えて滝見る人も見えてきし
大滝に至り著きけり紅葉狩
きっこさんは、わたくしに色々教えてくれた。季はひとつ、動詞はひとつ、切れはひとつ云々。北鎌倉の車窓の風景をぼんやりと見、省線にごとんごとん揺られながら、ふと、ここに揚げた爽波の若書きの句はことごとく俳句のルールを逸脱しているように見えると気づいた。途端、なぜ爽波が俳壇で敬遠されるのか、それにも関わらずなぜ爽波の句はいつまでも新しいのかがわかったように思えた。爽波の句には「ゆらぎ」があるのだ。動くということではない。陽炎のような揺曳が爽波の句にはあるのだ。
俳句は散文ではない。限られた十七文字という音数律・音韻律をもつ言語表現が、いまという、自分が拠って立つ時代を受け止め、表現への意志を持つ時、いまの時代を生きる俳句とは何なのだろう。芭蕉は月日は百代の過客と李白に借りて光陰の速さを嘆じたが、その時代よりも光速な高度情報化社会における新しい句の響きに触れたい。爽波は、自分は写生の徒であって花鳥諷詠の徒ではないと述べている。デビューした時から揚句のような句を詠んでいるとしたら、爽波はかなり新しい俳句とは何かを天性として体得していたのではないか。多作多捨以前の若書きを見れば、切れのポリリズム(多律動。細分化)、動詞や季語の輻輳、 景の心象化(有心)という、時代のスピードに合わせた表現の技法が顕著だからだ。
盆踊りを踊っている連中の中に4ビートや8ビートの若い連中がまざるどころではない、ビートでももう遅いというパルスのリズムで踊るダンサーが現れたようなもので、古い一穴主義の俳壇やせいぜい8ビートまでの前衛集団には受け入れられなかったのではないか。日記や家計簿代わりにのらくら俳句や漫然俳句を漫然と詠んで、その当然の結果として漫然とした句しかでけへんわしらのリズムはいまだ盆踊り以前じゃのお。猫踊りか。
芒枯れ少しまじれる芦も枯れ
数日後に学徒出陣を控え今生の別れと覚悟した句会で虚子に初めて声を掛けられた句である。芒と芦の季ぶくれ、枯れ・まじれる・枯れという動詞たちの輻輳、 枯れ/芦も/枯れ/という切れの細分化。句全体が季語/動詞/切れのポリリズムに揺れる。その揺曳はかすかだが、スピードを句に刻印する。読んでいると句がななめにゆらぎゆく。
鋪道濡れ散りし柳の乾きをり
濡れ・散り・乾くという動詞の輻輳、濡れ/柳の/乾き/をりの折りたたむような多律動。
滝見えて滝見る人も見えてきし
滝滝、見えて・見る・見えてというリピートとポリリズム。これなどは句が滝に向って動くような揺らぎが見えるだろう。
大滝に至り著きけり紅葉狩
大滝と紅葉狩の大季ぶくれの荒業に、至り・著きという畳み掛けるような上五と座五を強引に出会わせる切れの細分化。
新しいものを詠むから新しい句が生れるわけではない。新しいリズムで詠むから句は新しい調べをもたらすのだ。
投稿日: 2月25日(水)11時32分17秒
きっこさん何時も有り難うございます。
きっこさんのおかげで爽波をはじめて知った私の印象に残った句です。
絶えず考え事をしている脳細胞、体もそれに沿って動く、多忙を極めてないといられない、爽波をイメージしてる私です。 縁側のある畳の部屋を足さばきの音さへ聞こえてきそうな24歳の奇才 これから何処に行くのか 緊張感がただよいます。
投稿日: 2月25日(水)05時32分20秒
第一句集「鋪道の花」におさめられた、昭和18年、20才の時の句です。
「舟」ではなく「船」なので、何十人も乗れる中型以上の遊覧船なのでしょうが、時代が時代ですから、下手をすると甲板から落ちてしまうような船なのでしょう。
避暑地の湖は、夏休みの週末で、一番人手の多い時期です。
遊覧船乗り場には長い列が出来ていて、2艘の遊覧船はフル稼動をしています。
桟橋に横付けされた船は、手際の良い係員の捌きで、どんどん観光客が押し込まれて行きます。
良い場所に陣取っていた作者は、次から次に乗り込んで来る人たちに押され、少しずつ端っこのほうへと移動して行きます。
「おいおい、そんなに乗せて大丈夫なのか?」
そんな作者の心の声も届かず、係員はまだまだお客を乗せ続けています。
心なしか、船の喫水線も下がって来たように感じます。
ぎゅうぎゅう詰めの甲板は、まるで銀座の街のようです。
作者は、ハンカチで首の汗を拭いている開襟シャツのおじさんと、香水の匂いをプンプンさせた派手なワンピースのおばさんに挟まれ、身動きも取れません。
そして、しばらくして、やっと船は動き出したのです。
この句を詠んだ4ヶ月後、爽波は、学徒出陣のために応召されてしまいます。
そのため、翌年の句は、ほとんどありません。
そして、昭和20年、爽波22才の時、東京空襲によって父が負傷、入院します。
爽波は、1月に北支への赴任が決まったため、その前に父を見舞いますが、爽波が発った3ヶ月後に父が亡くなってしまい、この時の見舞いが、父との最後の別れとなりました。
その2ヶ月後の6月、内地への転属が決まり、10月には復員して東京に戻ります。
しかし、家は空襲で消失しており、母、弟たちと、知人宅へ身を寄せました。
爽波は、このような状況下でも、句数こそ少ないですが、それでも必死に作句を続けていたのです。
投稿日: 2月23日(月)23時24分41秒
連写にて撮りまくったスナップ写真の中のお気に入りの一枚・・・といった感慨を与えてくれる句です。多作多捨を実践することによって到達できた高みでしょうか。私見ですが、この句には鑑賞・解釈を寄せ付けない力があるように思います。(「鑑賞のお部屋」の書き込み としては不適切かもしれませんが・・・)
この衒いの無さは学ぶべきではありますが、安易に真似ることは大変危ういような気もしています。
投稿日: 2月22日(日)02時29分36秒
第四句集以降の平成1年の作品です。
部屋のあちこちに、積み上げられた書物の山があります。
他人から見ると、それは乱雑に積まれたように見えますが、本人にしてみると、すべて、どこに何があるのか分かっているのです。
キチンと片付けてしまうと、逆に分からなくなってしまうため、家人も勝手に片付けることはできません。
過去に一度、本人の留守中に勝手に片付けてしまい、ものすごい剣幕で怒鳴られてからは、家人は一切、手を触れていません。
あたしは、最初にこの句を読んだ時、このような景を想像しました。
しかし、「本」とは限定せずに「もの」と言っているのですから、他にも色々なものがあるのでしょう。
俳句鑑賞のルールから外れ、作者の背景を考えてみると、爽波は、机の上の1枚の書類ですら、斜めに置かれることを嫌ったような性格だったので、自宅でも、 ここにはこれ、あそこにはあれ、と言った具合に、決まった場所に決まったものが決まった形で置いていないと、落ち着いていられなかったのだと思います。
そんな自分の性格を理解していて、分かっているのに直すことができない自分と、直す必要などないと思う自分がいるのです。
「そこ動かせぬもの」とは、目に見えている「もの」だけではなく、そんな自分の性格をも表現しているのです。
そのあたりの自己認識や葛藤ですら、直接的には表現せず、写生と言う形をとって暗喩させているのです。
作者の性格を知った上で鑑賞すると、動かせぬ諸々のものを見ながら、そんな自分自身にもうんざりしている爽波の顔が、西日の中に浮かんで来ます。
しかし、俳句は、作者の背景とは切り離して鑑賞するものですから、最初のあたしの鑑賞でも、また別の鑑賞でも、決して間違いではありません。
もしかすると、爽波自身も、この暗喩は自分自身に向けてのものであって、不特定多数の読み手には、分からないように底流させたのでは?とも思えて来ます。