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スレッドNo.102

遊船にまだまだ人の乗るらしき 爽波

投稿日: 2月25日(水)05時32分20秒

第一句集「鋪道の花」におさめられた、昭和18年、20才の時の句です。
「舟」ではなく「船」なので、何十人も乗れる中型以上の遊覧船なのでしょうが、時代が時代ですから、下手をすると甲板から落ちてしまうような船なのでしょう。
避暑地の湖は、夏休みの週末で、一番人手の多い時期です。
遊覧船乗り場には長い列が出来ていて、2艘の遊覧船はフル稼動をしています。
桟橋に横付けされた船は、手際の良い係員の捌きで、どんどん観光客が押し込まれて行きます。
良い場所に陣取っていた作者は、次から次に乗り込んで来る人たちに押され、少しずつ端っこのほうへと移動して行きます。

「おいおい、そんなに乗せて大丈夫なのか?」

そんな作者の心の声も届かず、係員はまだまだお客を乗せ続けています。
心なしか、船の喫水線も下がって来たように感じます。
ぎゅうぎゅう詰めの甲板は、まるで銀座の街のようです。
作者は、ハンカチで首の汗を拭いている開襟シャツのおじさんと、香水の匂いをプンプンさせた派手なワンピースのおばさんに挟まれ、身動きも取れません。

そして、しばらくして、やっと船は動き出したのです。

この句を詠んだ4ヶ月後、爽波は、学徒出陣のために応召されてしまいます。
そのため、翌年の句は、ほとんどありません。
そして、昭和20年、爽波22才の時、東京空襲によって父が負傷、入院します。
爽波は、1月に北支への赴任が決まったため、その前に父を見舞いますが、爽波が発った3ヶ月後に父が亡くなってしまい、この時の見舞いが、父との最後の別れとなりました。
その2ヶ月後の6月、内地への転属が決まり、10月には復員して東京に戻ります。
しかし、家は空襲で消失しており、母、弟たちと、知人宅へ身を寄せました。

爽波は、このような状況下でも、句数こそ少ないですが、それでも必死に作句を続けていたのです。

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