親切な心であればさつき散る 爽波
投稿日: 2月 3日(火)02時24分31秒
お元気?さん、爽波を語る上で、とても重要な句を取り上げてくださって、どうもありがとうございます。
爽波については色々な人が書いていますが、「角川俳句」の昭和61年6月号に掲載されている、永田耕衣の「爽波布毛一すじ」と言う文章が、最も興味深いものです。その中で、「親切な心~」の句に対して書かれている箇所があるので、抜粋してみます。
『(前略)軽妙だが永遠に続くユーモアがある。滑稽といい切った方が俳句精神を顕彰するであろう活機に富む。活機といってもどこまでも控え目で出さばらぬばかりか、何のテライもない。いわば嵩ばらぬリズムの日常性がいっぱいだ。軽味も重味もヘッタクレも無い、融通無礙、イナそれさえもない日常茶飯の情緒だろう。正宗白鳥の「一つの秘密」が赤裸々にひそんでいるのであろうが、ソレがつかめぬモドカシサと快感が不尽である。〈凍鶴に立ちて出世の胸算用〉なら分かるのだが、一句の「親切な心」も「であれば」も「さつき散る」もナゾだらけで、快感の深淵を極めているのである。「思想」は元より「人生哲学」がハイデッカー以上に「野の道」に出ていて、「行方不明」の柔軟至極な微笑を不逞なまでに持続している。サツキの花の美学が世阿弥の「花のしほれたらむこそ面白けれ」に関わる一徹な宏大さに出ているからだ、ともいい切れぬ。「季霊」のハタラキが、宇宙的な人間性を放射せしめているためのナゾであろうことだけは分かるが、ヤハリ波多野爽波の言詮不能な、分け入りがたい人間性に由来していると裁断しておく方が賢明であろう。(後略)』
結局、さすがの耕衣も、この句に関しては、完全には読み切れない、と言っているのです。しかしそれは「お手上げ」と言っているのではなく、数学を大好きな人がなかなか解けない難問を好むように、この句の持つ難解性を楽しんでいるのです。
そして、爽波作品に共通する「日常に底流するワビ、サビ」を「日常茶飯の情緒」と言う巧い言葉で表現しています。
この句の解釈は、「であれば」にすべてが凝縮されています。
通常は、因果関係がある場合に使われるこの「であれば」を無関係な2つのコトを結びつけるために使っています。そのために、この句は一気に深読みを誘う難解な句になっているのです。
「親切な心があるやさつき散る」ならば、とても分かりやすくなるはずです。
結論を言えば、爽波の句は、あれこれと深く考えず、そのまま読めば良いのです。爽波自身、わざと難解にしようとか、読み手を困惑させようなどと考えて詠んでいるのではないのですから。
誰かから、ちょっとした日常の親切を受け、その行為に心が和んだ時、ふと見ると、さつきが散ったのです。それだけのことなのです。読み手から見ると、まったく関係の無いように思えるこの2つのコトも、その時の爽波にとっては、ひとつの流れの中でのコトだったのです。それが、「であれば」に集約されているのです。
これが、リアリティーの欠落した非日常的な大感動ではなく、何でもないコトやモノの中に必ず存在している小さな気づきであり、それを掬い取る名人、爽波ならではの視点なのです。
ぴーこさん、お元気?さんのように、清水哲男さんのサイト「増殖する俳句歳時記」の「作者検索」で爽波を検索すれば、たくさんの作品と、哲男さんの素晴らしい鑑賞を読むことができます。