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スレッドNo.35

独自の視点

投稿日: 2月 4日(水)00時01分4秒

対象の見方、切り取り方と言うものは、人と同じでは類想句になってしまいますし、だからと言って、人とまったく違ければ読み手に理解されない句になってしまいます。
爽波の視点は、人と同じようでいて、ほんの少しだけ違うのです。

その場にいる全員が、池の面の蓮を見て、一生懸命に蓮の句を作っている時に、爽波も皆と一緒に蓮を見ながら、耳だけは遠くの音を聞いているのです。

   蓮見茶屋ドーンと遠き音は何  爽波

全員が、一面のげんげや、遠くの山々、広がる青空の美しさに目を奪われている時に、爽波も皆と一緒にげんげを見ながら、そこに落ちているエロ本を見つけてしまうのです。

   恥づかしきものげんげ田に捨ててあり  爽波

真夏の炎天下の吟行で、参加者全員が汗をかきながら歩いていました。
どこにも日影などなく、皆、その暑さにまいっていました。
しばらく進むと、一本の大きな木が見えて来て、その木蔭で休憩することになりました。
やっと汗がひき、まわりを見回すと、皆それぞれに句帳を広げ、今まで歩いて来た道中で見たものを俳句にまとめています。
歳時記をパラパラめくり、一生懸命に俳句を作っています。
爽波だけは、句帳も歳時記も広げず、この素晴らしい木蔭を提供してくれている大木を見上げたのです。

   汗ひいて太幹をしげしげと見る  爽波

炎天下から木蔭に入ったばかりの時は、誰しもが、その木をじっと見る余裕などありません。
汗がひいて、ホッとして、心にゆとりが生まれ、初めて木をしげしげと見ることができるのです。
それなのに、他の人たちは、俳句を作ることにばかり一生懸命で、目の前のものを見る余裕がないのです。

これほどの大木なのですから、作者が生まれる何十年も何百年も前から、この場所に立っていたのです。
そして、作者が死んだあとも、ずっと立ち続けていることでしょう。
つまり、この木から見たら、今、自分の木蔭でひと休みしている人間など、何百年と言う生涯のうちの、瞬きのようなものなのです。
そんな大木と人間との一期一会がここにあり、それに気づいたのは、句帳を開かなかった爽波ひとりなのです。

この句は、ホッとして心にゆとりが生まれ、そのゆとりを与えてくれた大木をしげしげと見ている作者をもうひとりの作者が、第三者として客観的に見ているのです。
これが、コツコツと客観写生を積み重ねて来た者だけが、手に入れることのできる視点なのです。

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