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スレッドNo.37

>猫髭さん

投稿日: 2月 4日(水)02時26分14秒

猫髭さん、正直な意見をありがとうございます。
反論は、大いに結構です。
このコーナーは、俳人をひとりづつヨイショして行くコーナーではありませんので、反論があって、初めて本質に近づいて行くことができます。

俳句は、他の文芸や芸術、果ては食べ物や着る物の趣味と同様に、オールマイティーではありません。
地球上でオールマイティーなものと言えば、空気と水くらいしかありません。
すべての読み手の心に響く俳句や、すべての読み手に理解される俳句、ましてや、すべての読み手を納得させる俳句など、現時点では存在しないと思います。
いくらあたしが爽波を評価していても、世の中の評価は猫髭さんと同様に、低いものとなっています。
ですから、猫髭さんは自信を持って、この作家の作品は自分には響かない、とおっしゃれば良いと思います。
多くの人たちも、同じ意見なのですから。

ただ、言葉の使い方がおかしい、と言うだけで否定するのであれば、爽波の「親切な心~」の句を指摘する以前に、否定すべき句は星の数ほどあります。

あたしの感覚を言えば、さすがに「椿」を「散る」と言ったらおかしいと思いますが、花が小型で、見るからに重さを感じさせない「さつき」の場合は、その時の作者の感覚によっては、「散る」と言ってもそれほど違和感を感じません。
椿はボトッと落ちますが、さつきはフワッと落ちますので、あたしの感覚では、この二つの状態を「落ちる」と言う同じ言葉で表現するほうが、逆にイメージに反しているようにも感じられます。
たとえば、「桜」は「散る」と言いますが、落ちているものを見ると、花弁だけではなく、花自体もたくさん落ちています。
八重桜などは、花が塊になって落ちていますが「散る」と表現しています。
ですから、あたしの感覚では、花弁であっても、花自体であっても、それが、それほど大型ではなく、重さを感じさせないものであれば、「散る」と表現しても、それほどおかしいとは感じません。
もちろんこれは、あたしの感覚ですから、猫髭さんの考えを否定するものではありません。

念のために、「散る」と言う言葉を辞書でひいてみましたが、「花や葉が茎や枝から離れて落ちる。」と書かれてあり、「花弁」とは指定されていませんでした。

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