水涸れて木に宿り木の高さかな 爽波
投稿日: 2月 4日(水)20時25分41秒
第二句集「湯呑」におさめられている句です。
仲秋には「水初めて涸(か)る」と言う季語がありますが、これは中国の七十二候から来ているもので、時候の季語になります。
一方、この句の「水涸る」は、冬季になり、水源地に雪が積もる影響で、実際に川や池の水が涸れてしまう様子を指す季語です。
この句は、写生句でありながら、「川涸れて」や「池涸れて」と言う具体的な季語を使わず、あえて「水涸れて」と言う、焦点のぼやけた季語を使っています。
これは、宿り木の描写のほうに焦点を絞るためであり、この季語が語っているのは、「渇水期である」と言う時季的な背景なのです。
冬の渇水期ともなれば、落葉樹の葉はすべて落ち、裸木になっています。
青々と葉が茂っていた時季には、カムフラージュされて見えにくかった宿り木が、渇水期、つまり冬季に入り、木の葉がすべて落ちたことにより、その独特の姿をあらわにしたのです。
「水涸れて」と言う季語と、宿り木の描写を取り合わせただけの句なのに、ほとんどの読み手の頭の中には、寒々しくも広々とした冬の空が広がって行きます。
波多野爽波と言えば、多読と多作多捨を基本とした「俳句スポーツ説」が有名ですが、この句も、多作多捨だからこそ生まれた句と言えます。
爽波の「俳句スポーツ説」については、以前、「きっこ裏俳話集」に書きましたが、まだ読んでいない方、一度読んだけれど忘れてしまった方は、この機会に読んでみてください。
下のURLからどうぞ。
*図書館註:「きっこ裏俳話集」はアップ次第リンクを貼ります。