避暑に来て貧乏ゆすりしてをりぬ 爽波
2月 6日(金)00時03分27秒
爽波は、処女句集「鋪道の花」でも、自選二句目に
籾殻の山より縄の出てをりぬ
を揚げており、デビューしたときから「~てをりぬ」という弛緩した言葉を使っています。
「をり」は動詞の連用形、またそれに助詞「て(で)」の付いたものに付いて、動作・状態が続いていることを表し、「ぬ」は動作・作用が完了すること、また、すでに完了してしまったことを表す助動詞なので、意味が通らず、これは日本語とはいえません。
これらの句が写生や諧謔の目はすばらしいのに表現として弛緩しているのはそのためです。
写生というものが力を持つとすれば、それはこういう見た時の目の厳しさ、気づきの繊細さを言葉で定着させるまでゆるがせにしない時に初めて力を持つのであって、わたくしはこういう意味不明な産五の句は、好き嫌い以前に産五の肥立ちが悪いとボツ。写生に徹していない、発見したことそのことや諧謔の思いつきで主観が弛緩し客観を忘れている事例です。
ただ、誤解の無きように言っておきますが、それは爽波を全部捨てるということではありません。捨てるのは、「てをりぬ」といった弛緩した表現の句や、合弁花を散らすようなわたくしにとっては五感にそむく句で(これは文学とか常識とか、そういうゴタク以前の生活の中の五感上の、散る、落ちる、萎れるといった違いが、具体的にその花の色匂い形を伴って瞬時に四肢を包む記憶に照応するかしないかという話です)、爽波の句のほとんどは古びない言葉を選んで表現されています。例えば、
銀色の釘はさみ抜く林檎箱 爽波
などは釘がなくなりバールがなくなったとしても容易に錆びない輝きを持っています。吉行淳之介の短編にも似た趣です。銀が古びることを拒み、はさみ抜くことでギーッという音とともに輝きも増すほど木目にサビを保護され拭われ、リンゴの香りがその金属臭さを消して銀色の輝きだけを吟醸香のように残します。
爽波の瀟洒にして洒脱な句業は虚子門下では群を抜いており、その自作ノートは稀有な実践論としても有名です。
しかし、こういう有名人の有名な名句を取り上げることが果たして、わたくしのような素人にどこまで役に立つかというと、余りのレベルの差に、わしゃ及び腰。裏山をヨタヨタ歩いてる爺いがいきなりエベレストに登れと言われるようなもので、いくらきっこさんのような優秀なシェルパが付き添うてくれても無謀やがな。
骰子の一の目赤し春の山 爽波
なんか、木枯紋次郎と国定忠治が赤城山麓で骰子賭博をしてるような主観妄想句にしか見えん(笑)。
閑話休題。ひとみさん、あなたの「つれづれ日記」素晴らしいですね。日々の無名の句のなかの誰かに伝えたい息吹を持った良さがある句を自分の気持に誠実に語られていて心に響きます。A級、超一流のブランドを掘り下げるきっこさんの鑑賞の仕方も凄いですが、あなたの自分の背丈が届く範囲での心に響く無名の作品を拾い上げていくやりかたはわたくしの善しとするところです。