子を抱きて虹に立つ人また妊めり 爽波
投稿日: 2月 7日(土)10時19分47秒
きっこさん、皆様、おはようございます。鑑賞のお部屋は初めてですが、勉強させてください。
hudekazu様。「ぬ」と「き」、ことに「き」については私もいろいろ疑問を持っていたので参考になりました。「き」や「し」がきちんと過去の助動詞としてではなく、単なる調子合わせや字数合わせに使われているような気がしてしょうがありませんでした。それでなくても俳句は寸鉄の詩。過去の助動詞の多用はどうかなあ、と思っていたのでした。それが「何となく「過去」とは違う意味合いで現在用いられてあるのと似たような事情があるのでは、という事を思います。」というお説で何となく納得。言葉もその使い方も時代と一緒に動いているのを感じます。でもできることならその言葉本来の持っている意味、それに即した使い方を大切に守っていきたいと思っています。
すみません、ここで論じるべきことではなかったかもしれません。
さて、掲出句。最初見たとき「なんだ、これは?」と思いました。2年間隔の同じ月に3人ぽろぽろ産んだ私のことかしら、とも思いました。年子・3原則「無知、無計画、好き者」も頭をかすめました。(まじめなコメントが続いている中、ごめんなさい)
そう思わせる原因のひとつに用言の多用があると思います。ネットで探っても図書館へ行ってもなかなか資料に行き当たらず、数少ない中からの鑑賞なのでとんちんかんかもしれませんが、どの句も比較的動詞が多いように思いました。それがわかりやすい印象を与えるのでしょうね。詩だったら田中冬二さんのように。
この句も「また妊んだ人」が誰か、でずいぶん解釈が異なってきます。当然「また妊ませた人」もいるわけで。中7の明るさを考えると「奥様」と考えるのが清く、正しく、つまらない解釈なのでしょう。どこかに爽波のことを「何とか大臣を務めた人で、人の顔色をうかがう必要がない・・・うんぬん」と書いてありました。そういうコメントを読んだり他の句を読んだりしていくと、もしかして虹に立つ人が「別宅様」でもこの人なら「またできちゃったあ」と手放しで喜ぶのかもしれないなあ、と思いました。ちょっと私小説風な句で楽しみました。
初めてこの作者と向き合ってみて、きっこさんがなぜ爽波を取り上げたか分かるような気がしました。きっこさんの句に対する姿勢や「しりとり俳句」で学ぶべきものいろんなことを考えました。ありがとうございました。