MENU
3,652

スレッドNo.64

桐の木の向う桐の木昼寝村 爽波

投稿日: 2月 8日(日)01時34分1秒

第二句集「湯呑」におさめられている句です。
上五、中七の描写は、現在ではそれほど突出したものでなく、このような表現は、俳句ではわりと使われています。
音数の少ない俳句では、同じ言葉は繰り返さず、ひとつに省略するところですが、それをあえてリフレインさせると言うのは、逆効果を狙ったテクニックのひとつなのです。
あたしの句でも、

  瓜蝿が瓜蝿を呼ぶ雨催 きっこ

と言う句があります。
このような表現を使った場合は、そのリフレインの表現自体を眼目とすることが多いのですが、現在では多く使われている方法なので、よほど新しく、オリジナリティーのあるリフレインを見つけない限り、それだけを眼目とすることは難しくなっています。
そのために重要なのが、残りの5音の処理なのです。
爽波の句は、下五の「昼寝村」と言う季語の斡旋が秀逸で、この句のイメージ喚起力を一気に引き上げています。

平成12年に発行された宇多喜代子の句集「象」の中に、次の句があります。

  大きな木大きな木蔭夏休み 喜代子

この句を読んだ瞬間、あたしは爽波の「桐の木の~」の句が頭に浮かびました。
類想と言う意味ではありませんが、一句から立ち上がって来るイメージが酷似しているため、爽波の句の世界がオーバーラップしたのです。

俳句の魅力のひとつとして、「たった十七音の言葉が、読み手の頭の中のスクリーンに大きな映像を映し出す力を持っている」と言うことがあげられます。
観念的な表現や主観的な描写からは、なかなか映像が見えて来ませんが、客観写生句からは、たとえ悪い句であったとしても、それなりに映像が立ち上がって来るのです。
ハイヒール句会の相互選で高得点になった句は、どれも一読で映像の立ち上がって来る句ばかりで、逆に点数の入らなかった句は、観念的、主観的な表現をしているため、映像どころか、句意を読み取るのが精一杯なのです。
そう言った句は、一句が文字だけの世界で終わっていて、映像の世界にまで発展して行かないのです。

俳句は文字で書かれていますが、その鑑賞の方法は、絵画鑑賞に近いのです。
観念的、主観的な表現は、どちらが上か下かも分からないような抽象画であり、客観写生は、誰が見ても分かる風景画なのです。
そして、同じ風景を見て写生しても、それぞれの作者の筆使いや色の選び方などで、金賞になる絵もあれば、予選で落ちてしまう絵もあるのです。

爽波が提唱していた多作多捨とは、とにかくどんどん一枚でも多く絵を描け、と言うことなのです。
絵は、描かなければ上手くはなりませんが、俳句も同じことなのです。

編集・削除(未編集)

ロケットBBS

Page Top