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スレッドNo.74

冬来る分厚き斧の刃をまたぎ 爽波

投稿日: 2月10日(火)01時56分25秒

爽波自選四百句の中では昭和35~43年の四誌連合会解散の章に出て来る句で、歌人前登志夫が爽波の若書きの秀句としてあげている。
その言い草が面白い。きっこさんやわたくしがあげた「桐の木の向ふ桐の木昼寝村」や「掛稲のすぐそこにある湯呑かな」は「物思うよりも素早く対象のものを写生するという不気味な情熱」すら感じさせる句だというのだ。揚句は、まだ爽波が「文学的まやかしに倦きていなかった頃の秀句」だという。「悲劇の俳人」とも歌人は爽波を評している。日本でも屈指の名文家前登志夫には見える爽波の「失ったものの多き」とは何なのだろう。わたくしは爽波に親しんでいないので それがどんな悲劇なのかはわからない。だが、それは

  桜貝長き翼の海の星     爽波
  夜の湖の暗きを流れ桐一葉  爽波

といった、三島由紀夫の言葉を借りれば「若かりし日の旅に一度見た、山間の美しい澄んだ湖のやうな」句の美しさと無縁ではないだろう。夜の海で桜貝は見えない。夜の湖で桐一葉は見えない。それは爽波もそう述べている。だが、爽波はそれらが現実に自分の口をついて出て来た「現場での一句完結」の句であると認めている。この桜貝、桐一葉は美しい。わたくしは爽波の以後を知らないので、こういう美しさを持った句を爽波が封印したかどうかを知らない。だが、これだけは言える。こういう美しさを勉強してはいけない。本当の美しさというものは沈黙を強いるものだ。

わたくしたちが俳句を愛するのは、そこに美があるからではないか。生きとし生けるものに巡る春夏秋冬花鳥風月落下流水愛憎離別生死無常、ひとことで言えば感動だ。
感動があるから句が来る。詠むのも読むのも、たとえばそれが自然であれば、自然を慈しみ包まれる心がそこになければ俳句は単なる言葉遊びに過ぎなくなる。 俳句が売れないのは、爺むさくて貧乏臭いからだが(笑)、本当に自然が好きで詠むのではなくて、自己実現のための言葉の語呂合わせをするために自然を道具立てに使う者が多いから、嫌われているのではないかと思う。
写真でも絵でもいいが、そこには写真ですら撮る側の対象に対する主観が現れる。ましてや言語という主観以外の何物でもない表現であれば。それが押し付けであれば、どれほど優れていようと息苦しいのでひとは足を長くは止めない。
爽波はこういうことを書いている。「世俗にまみれ虚飾に満ちた自己をいかにして洗い流し、有りの侭の自己をそこに現出させるか」。多作多捨は「身裡から世俗・虚飾を洗い流して行く」という克己の道となる。そのうち不浄の身を捨てて白い骨だけになるだろう。

わたくしは爽波の写生句を凄いとは思うが、好きかと聞かれれば、主観の詰まった句の方が好きだ。というより、爽波は写生というより、昼寝村といった造語 や、サイコロの一の目の赤と春の山の取り合わせや、斧を跨ぐ冬や、葉桜の頃になるとやたらと突っ走る電車といった主観の名手としか思えない。

  葉桜の頃の電車は突つ走る 爽波

最後に、爽波の最も爽波らしく爽波以外に誰も詠めなかった句を揚げよう。

  鶴凍てて花の如きを糞(ひ)りにけり 爽波

この際立つ美しさには爽波の魂の指紋がついているとしか思えない。師の虚子をこの一句で永遠に葬った爽波の最高傑作だと思う。ふたたび言う、こういう美しさを勉強してはいけない。わたしたちにできることは、こういう美しい句に出逢うことだけなのだ。

編集・削除(編集済: 2022年10月23日 01:54)

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