新緑や人の少き貴船村 爽波
2月11日(水)17時51分43秒
第一句集「鋪道の花」より。作者自身が「新緑や」を「極く自然に胸に受け入れられたことが手柄」とし、京都左京区鞍馬の貴船(きぶね)を愛した京大時代の恩師松尾いはほ氏とこの句を誉めてくれた先輩松本たかし両氏の面影を愛着としてあげている。
その意味では、読む側の貴船という固有の地への共有の記憶と、作者の固有の記憶と両方に支えられている句だと言える。
わたくしの妻が京女なので、京も貴船も親しいが、特に夏は盆地の京が風も死に絶える酷暑のさなかにあっても、貴船神社から貴船川の流れに沿って櫓を組み茣蓙の上で涼を取れば肌寒いほどで、昔からの避暑地だった。貴船では「川床(かわどこ)」と呼ばれる。新緑の頃から涼を求める夏といえば、貴船は、京を知る者には親しい土地柄である。
しかし、この句は貴船を知らない者をも立ち止まらせて憩わせる片陰を持つ。たとえば、この地名を折口信夫の貴種流離譚のひそみにならって、京から常陸の国までおろせば、わたくしが幼少時代を過ごした水府村(すいふむら)もまた川沿いの村であり、古泳法水府流の発祥の地でもあったから、川に鰻筒を仕掛けたり水に遊ぶ記憶は、喩えだが、「新緑や人の少き水府村」でも、常陸の国びとには心に響く。産五が動くということではない。新緑の美しく映え、夏は避暑地ともなる日本の土地柄は、それぞれの四季を生きる日本人の心に、貴船という固有の地をおとなわずとも、緑したたる古里を、あるいは懐かしく旅した先々の思い出の地を引き寄せる力を持つということだ。その思いは、海へとそそぐ我が古里の那珂川沿いの寂れた常澄村(つねずみむら)の、桃の花の色だけがやけに毒々し く際立つ暗い雑木林の村すらも引き寄せ、
夕闇や桃の花濃き常澄村 猫髭
といった記憶をも偲ばせる。爽波の句の姿が、季語が産五の風土と響きあっていること、中七に季語がむせるような緑の豊穣を訴える逆説的な取り合わせを置いていること、そういったシンプルだが静かな力に満ちた句のたたずまいが、句作へといざなう余波をなげかけるのだ。盗みたくなる絵がよい絵だということがあるが、秀句もまたそうである。
もう一歩踏み込もう。
新緑や人の少き貴船村 爽波
中七の終わりと産五の始めのkikiという音韻律がぶつかり、上五の大きな切れとはまた違う小さな切れを音韻でも作り出している。過去回想の助動詞「き」の連体形である「し」で同じi音律でもクッという強さをシィという裂帛から漏れ偲ぶ韻律に換えることはできなかったのか。
新緑や人の少し貴船村 贋爽波
妙に落ちついた雰囲気になり、新緑があふれない。「少き」の「ki」の若い不安定さが、ざわめく「樹」を隠しているからだろうか。「少なき」という以上は 「多き」ものがあることになり、これが「新緑」だという解釈をした。多分正しいだろう。だが、正しいということはどうしてかくも味気ないものなのだろう。 これでは勉強会に過ぎない。犬に食れてやっても食わない。食うのはインプット重視の点取りムシとお受験ババアだけである。俳句は2×2=4ではない。我が師吉田健一はこうわたくしに教えた。「謎は謎のままでいい。答えは何物でもない。要は問いを深められるかどうかなのだ。答を見つけるのではなく、深い問いかけができるかどうかだ」と。「人の少き」分、人でないものが溢れている。生命の象徴としての新緑に対して、そこには死を象徴する何かが隠れているのではないか。
貴船川の流れを貴船山に日が昇り貴船神社から御手洗川(みたらしがわ)の瀬音がやがて麓に下りて太い鞍馬川に合流し夕闇迫る賀茂川へと注ぐまでを思い出す。日が暮れかかり涼しさを通り越す頃、祗園戀しやと貴船川を葉陰越しに左手に下れば夕闇の中で川明り以外に何かが光るのが見える。螢だ。思い出した。我が水府川も螢が群舞する川だった。そして貴船は螢が魂として、あるいは魂が螢として、王朝の昔から漂う場所だった。貴船を愛してやまない松尾いはほが知らぬわけがない。若き爽波といえども貴船神社に参らないはずはなかったのだ。この句の新緑が隠れる闇に舞うのは螢だ。
第四勅撰集後拾遺和歌集第二十雑六「神祗」和泉式部の「男に忘れられて侍りける頃、貴布禰にまゐりてみたらし河に螢のとび侍りけるをみてよめる」歌がそれである。
物思へば澤の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞみる 和泉式部
わたくしと仲が良かった妻方の祖母は貴船山に近き鞍馬山で荼毘に付された。その魂は貴船川を飛ぶ。
地の霊を呼び、川の精霊の舞い、祖母よ、御霊安かれ。
貴船川はんなりとした螢かな 猫髭