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スレッドNo.81

爽波の前衛時代 ①

投稿日: 2月13日(金)12時14分6秒

これまで、「爽波=写生俳句」と言う観点だけから鑑賞して来ましたが、それは、現在、句集などで読むことのできる爽波の作品が、そう言ったものしか残されていないからです。
多くの俳人が自分のスタイルを模索しながら成長して行くように、爽波にも、写生以外へ目を向けた時代もあったのです。

昭和38年、爽波40才の頃からの数年は、前衛作家たちとの交流が盛んになり、それまでのスタイルからは想像もつかないような作品を作っていました。
後に、また写生俳句へと回帰したため、その時期の作品は自ら封印し、句集などには残していません。
そのため、爽波の句集は、第一句集「鋪道の花」(昭和31年)と、第二句集「湯呑」(昭和56年)との間に、長い沈黙の期間があるのです。

  どこも絨緞(じゅうたん)で疲れるホテル星が流れ  爽波(昭和38年)

  河豚で酔いベルトのように鋪道流る  爽波(昭和38年)

  星を水に近く引寄せ鶏頭立つ  爽波(昭和39年)

これらの句を読んで驚くことは、破調はともかくとして、表記まで現代仮名遣いになっていることです。
後の爽波は、この時代の自分自身のことを「前衛かぶれ」だったと言い、とても恥ずかしがっていたのです。
しかし、この時代があったからこそ、本当の写生へと辿り着いたのではないでしょうか。

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