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スレッドNo.82

爽波の前衛時代 ②

投稿日: 2月13日(金)12時13分25秒

爽波には、自らを「前衛かぶれ」、また「放蕩時代」と呼ぶ時期があったため、第一句集「鋪道の花」(昭和31年)と、第二句集「湯呑」(昭和56年)との間に、長い沈黙の期間がある、と言うことを書きましたが、実は、昭和43年に、第二句集を出す予定だったのです。
昭和43年と言うと、40年から始まった爽波の「前衛かぶれ」がやっと一段落し、ひどい字余りの句などが減少して来た年で、翌年(44年)には、定型俳句に戻りました。
つまり、「前衛かぶれ」になる前の自分と、ひと通り「前衛」と言うものを実験してみた自分、その両面を1冊の句集にまとめようとしたのです。

結局、その話は立ち消えとなってしまいましたが、その幻の句集に掲載されるはずだった、旧友、三島由紀夫の書いた文章が、13年の後に出版された第二句集「湯呑」に、そのまま掲載されています。
これは、昭和45年11月に割腹自殺した三島に対する追悼の意味に他なりません。
何故かと言うと、この時に三島が取り上げている句のほとんどが、「湯呑」からは外されているのです。
それらはもちろん、次のような「前衛かぶれ」時代の破調の句です。

  靴にうをのめ閉ぢこめて春天の濃さ 爽波

  北開く北は痛ましきまでに疵つき 爽波

もし、この幻の句集が出版されていれば、爽波を研究する上では、とても興味深い資料になっていたはずです。
しかし、あたしは研究者ではなく一読者ですので、作者が封印した作品に対しては、鑑賞すべきではないと思っています。
ただ、爽波にもこのような時代があったと言うこと、そして、その時代の作品は、自らが発表に値しないと判断し封印したと言うこと、これだけは知っておくべきだと思います。

編集・削除(編集済: 2022年10月24日 00:54)

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