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スレッドNo.165

質問させて下さい

はじましてニャン太と申します。
早速ですが宗教にあまり詳しくないのですが、仏教=般若心経だと思っていたのですが、私の知人は浄土真宗なのですが、なぜ般若心経を唱えないのですか?気になっていたのでご住職様、解りやすい回答をお願いします。

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解りやすい説明で納得出来ました。ありがとうございました。
この様なホームページに巡り会えた事に感謝いたします。
ご住職様もお身体、健康には気を付けて益々の発展とご活躍期待しております。
ニャン太

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確かに、浄土真宗では般若心経を唱えません。何故そうするのか。主催人も正確な理由は分かりません。
何かあるはずです。推察してみましょう。ニャン太さん。自力と他力ということを聞いたことがありますか。自力は修行、他力は信心・信仰という風に考えることが出来ます。
自力は自ら精進して、仏の高みに到達する。お釈迦さまが説かれた教えはそうでした。だから、お釈迦さまは人々には出家を勧められました。日々の生活を修行一本に集中して初めて悟りに達する。お釈迦さまはこう考えられたわけです。
しかし、これでは全ての人が救われません。そこで、お釈迦さまが亡くなられて4,5百年たった頃大乗仏教運動が起こりました。つまり、誰もが実践できる修行方法があるのではないか。これを彼らは大乗つまり大きな乗り物に譬えました。
浄土真宗の教える浄土教もこれら大乗運動の一つとして起こりました。浄土教徒は観仏と言って、仏とその浄土をイメージする修行をして、仏と一体となることを目標としました。中国に伝わった浄土教もインドの地の方法を取り入れました。
しかし、日本に浄土教が伝わると観仏とともに、信心と浄土往生を目指す浄土教が生まれました。前者を法然の浄土宗、後者を親鸞の浄土真宗が担いました。
浄土真宗は特に信心を重視しました。つまり、他力を徹底したわけです。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」
この歎異抄の冒頭の一文は念仏行者のこころ持ちをよく伝えています。摂取不捨というところが眼目です。つまり、阿弥陀仏は念仏者を必ず救い取って、その願いを放棄することは絶対にない。
さて、ご質問の件です。浄土真宗の説く念仏は専修念仏と言って、南無阿弥陀仏の六字の名号のみを選び取りました。従って、他の教えは放棄したわわけです。
般若心経は自力で悟りに達することを説きます。
「観自在菩薩、深般若波羅蜜を行ずる時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。」
般若波羅蜜とは仏の智慧、つまり、仏そのものと考えて良いでしょう。般若心経は明らかに仏(般若波羅蜜)を目指して精進せよと説いています。
浄土真宗が般若心経を唱えないのは、般若心経が自力の行を説いているからです。理由は意外と簡単なものです。
ニャン太さん。お分かり頂けたでしょうか。うまく説明出来たようには感じられません。疑問点などご指摘いただければ幸いです。

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