MENU
44,137

スレッドNo.104

老子でジャーナル

老子第21章
 孔徳(こうとく)の容(よう)は、ただ道にこれ従う。道の物たる、これ恍(こう)、これ惚(こつ)。惚たり恍たり、その中(うち)に象有り。恍たり惚たり、その中に物有り。窈(よう)たり冥(めい)たり、その中に精有り。その精甚(はなは)だ真なり、その中に信有り。古より今に及ぶまで、その名は去らず。以(も)って衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。吾れ何を以って衆甫の状を知るや、これを以ってす。

 大いなる徳のある人の容(すがた)は、ただ道にこそ従っている。そもそも道という実在は、ただ仄(ほの)暗く定かならず、定かならず仄暗い中にも何やら象(かたち)があり、仄暗く坂加ならぬ中にも何ものかが実在している。奥深く幽(かすか)な中に霊妙な精気がこもり、その精気はこの上なく真実で、その中に創造者としての明証がある。それは昔から今に至るまで、変わることなく道と呼ばれて、言うなれば、あまたの族長たちを統べる本家の総領。族長たちの実状がどうして私にわかるのかといえば、それは総領である道によってわかるのだ。(福永光司先生の訳)
 別の訳もあります。↓
 真の徳を備えた人のありようはひたすらに「道」に従うばかりである。「道」というものは、ひたすらにぼんやりとして捉えどころが無い。ぼんやりとして捉えどころが無いのだが、確かに何かが存在している。ぼんやりとして捉えどころが無いのだが、確かに何かが見えるのだ。奥深くてほの暗くて、その中に何か精気が存在する。その精気はひたすらに純粋で、その純粋さは最も確かなものである。はるか大昔から今に至るまで、その「道」は存在し万物の始原である。何故私が「道」が万物の始原であるか解るかと言えば、以上のような理由からである。

※浩→この章もまた「孔徳の容」すなわち偉大な徳を持つ老子的な聖人の風貌を描いています。その聖人が体得している根源的な真理である「道」が、いかなる実在であるかを原理的に説明しています。これまで、「玄のまた玄なる衆妙の門」「帝の先に象(に)る万物の宗」「無状の状・無物の宗」と譬えられたのに対して、ここでは「恍惚・窈冥」たる実在として説明されています。さらに、男女の交合作用に発想の基盤を持つと思われる「精」が加わって、sexualな描写にもなっています。「孔徳」を「吼賨(高等:女性の性器)」、「道」を「擣(とう:餅搗 もちつき)の搗で、男女の性行為)」、「象」を「潒(しょう:液の流れるさま)」、「物」を「沸(液の流れ出ること)」の借字とみる大胆な試みもあるそうです。

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top