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スレッドNo.106

老子でジャーナル

老子第22章
 曲(きょく)なれば即ち全(まった)く、枉(おう)なれば即ち直く、窪(わ)なれば即ち盈(み)ち、敝(やぶ)るれば即ち新たに、少なければ即ち得、多ければ即ち惑う。ここを以って聖人は一(いつ)を抱いて、天下の式と為る。自ら見(あらわ)さず、故(ゆえ)に明らかなり。自ら是とせず、故に彰(あら)わる。自ら伐(ほこ)らず、故に功あり。自ら矜(ほこ)らず、故に長し。それ唯だ争わず、故に天下能(よ)くこれと争う莫(な)し。古(いにし)えの謂(い)わゆる曲なれば即ち全しとは、豈(あ)に虚言(きょげん)ならんや。誠に全くしてこれを帰す。

 曲がりくねった木のように役立たずであれば、生をまっとうできる。尺とり虫のように身を曲げていればこそ伸びることもできる。くぼ地のようにへこんでいれば、いろいろな物を溜めることができる。古着のようにボロボロであればこそ、新しくなることができる。多くの物を持ち多くのことを求めると、悩みごとには際限がない。だからこそ聖人はたった一つの「道」を守り、世の模範となっているのだ。自ら目立とうとはしないからこそ誰もが気づく、自らを肯定しないからこそ誰もが認める。自らを自慢することがないからこそ誰もが称える、自らを自慢することがないからこそ長く「道」を保てるのだ。そもそも人と争って何かを求めようとしないので、決して誰にも敗れることがない。昔の人が言う「曲がりくねった木のように役立たずであれば、生をまっとうできる」とは真実である。そうしてこそ生をまっとうし、根源に帰ることができるのだ。

※浩→老子が人生の秘訣を問われて、剛強な“歯”となるよりも柔軟な“舌”となれと答えたように、彼は直線的な人生よりも曲線的な人生を愛します。“線形論理”でないのでしょうか。また、自分を常に人前に押し出し、陽の当たる場所に先を競って立とうとする強引な処世よりも、自分を常に背後に退け、他人のあとからゆっくり歩いて行く無理のない処世を好みます。無理をしないために廻り道もし、汚濁に身を汚し、屈辱にも甘んじるのです。彼が“不争”の徳を説くのも、負けて勝つ人生を強調するのもこのためです。一面無気力な敗北主義、優柔不断な消極主義に見えますが、他面、これほど図々しい無気力はないと、福永光司先生は述べられます。野田先生はよくおっしゃっていました。「幸せになるのは簡単。不幸になるのをイヤがらなければいい」と。リスクテイキングです。
 昔1990年代に、岡山市内で野田先生のオープンカウンセリングが毎月ありました。私は、なんと自分が授業に行っているクラスの女生徒から、「うちの母がアドラー心理学というのをやっていて、先生が毎月岡山市内で公開のカウンセリングをしている」と教えられて、早速行きました。たちまちその魅力に取り憑かれて、以後毎回かぶりつきで見学することになりました。その中の印象的なケースを思い出しました。
 自立して人並みでない生き方を選んだが、人並みが気になりだした女性の相談です。
クライエント(以下「ク」):仕事はパートで責任を伴わない。東京で新しい仕事にチャレンジしたいが、リスクが恐い。30過ぎたので、会社は若い人のほうを採用するだろう。
野田:東京へ行ってチャレンジするなら、すればよい。リスクなしで成功しようというのは泥棒と同じ。
ク:あ、はあ。でも、挫折して岡山に帰って来るくらいなら、はじめから行かないほうが……。
野田:挫折と思わないでよい。たとえ何か月かでも、東京でやれたことを評価すればよい。できなかったことばかり見るのでなく、できた部分に注目するのです。
ク:はあ。でも若い人のほうが採用されやすいのでは……。
野田:20代の人よりは不利だが、40・50代の人よりは有利ではありませんか。
ク:それはそうですけれども、会社だって利益を産む人のほうを雇うのが有利でしょうから、私のような曖昧な者は雇わないんじゃないでしょうか。
野田:『でも』と『けれども』で値引きするのをやめてみられませんか。
ク:はあ、でも……。平凡な結婚をしてもつまらないと、今まで独身を通してきたがこの歳になってみると、まわりのほとんどの人が夫や子どもに囲まれた暮らしている。それを見るとあせってくる。
野田:あなたのおっしゃることは矛盾していますね。自分で結婚しない道を選んだのだから、もう一方を羨んではいけないでしょう。
ク:はあ、でも。家族もまわりの人も変な目で見るし……。
野田:そら、その『でも』があなたのパターンですよ。選ぶということは他方を捨てることなんです。仕事でも人間関係でもあなたはリスクを恐れて、責任のある生き方を選ばない。だから悩むのです。

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