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スレッドNo.116

老子でジャーナル

老子第27章
 善く行くものは轍迹(てっせき)なく、善く言うものは瑕謫(かたく)なく、善く数うるものは籌索(ちゅうさく)せず。善く閉ざるものは関鍵(かんけん)なくして而(しか)も開くべからず。善く結ぶものは縄約(じょうやく)なくして而も解くべからず。是(ここ)を以て聖人は、常に善く人を救う、故(ゆえ)に人を棄つる無し。常に善く物を救う、故に物を棄つる無し。是を明(めい)に襲(い)ると謂(い)う。故に善人は不善人(ふぜんにん)の師、不善人は善人の資、その師を貴ばず、その資を愛せざれば、智ありと雖(いえど)も大いに迷わん。是を要妙(ようみょう)と謂う。

 すぐれた進み方というものは車の轍や足跡を残さない。すぐれた言葉というものには少しのキズもない。すぐれた計算というのは算盤を使ったりしない。すぐれた戸締りというのは鍵やカンヌキをかけずにいても開けることが出来ない。すぐれた結び目というのは縄も紐も使っていないのに解くことが出来ない。この様な物事の見方をする「道」を知った聖人は人の美点を見出すのが上手いので、役立たずと言われて見捨てられる人が居なくなる。またどんな物でも上手く活用するので、用無しだという理由で棄てられる物が無くなる。これを「明らかな智に従う」という。たとえば善人は善人では無い者の手本であり、善人では無い者は善人の反省材料である。手本を尊敬せず反省材料を愛さないというのでは、多少の知恵があっても迷うことになるだろう。こういうのを「奥深い真理」と言う。

※浩→ここでは「善」について説明されています。老子において善とは水のように定形にとらわれないことであり、果実が成熟するように、おのずからにして物事を成し遂げていくことであり、世俗のいわゆる善が不善であることを知って、無為の事に安んじ、善悪相対の立場を越えて、あるがままの道の世界に身を置くことでした。無為自然であることが善であり、人間の計らいを捨てること、巧まざる巧みさが善でした。それは巧まざる巧みさであるから人為的な技巧を弄するころがなく、人間の計らいを捨てるから一切の存在をあるがままに受け入れていき、無為自然であるから、いわゆる善人を肯定するとともに不善人も見捨てません。老子の善は、根底において悪と一つであり、悪をも赦し包容していく善です。善悪を厳しく区別して、善でなければ悪、悪でなければ善であるというように割り切る二者択一的な思考を老子は好みません。善もなく悪もないところから善を見、悪を見ていこうとします。ですから善が救われるとともに悪もまた救われます。善を善として誇ればもはや善でなくなるとも言えます。「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言った親鸞を連想します。老子には親鸞のような煩悩具足の自覚もなく、阿弥陀の本願をたのむ信仰もない。親鸞の信仰が深い罪業意識に支えられ、鋭い宗教的な人間凝視を持つのに対して、老子には親鸞のような意識も人間凝視もない。ただあるがままであり、何の屈託もなく、素朴で自然です。それにもかかわらず、両者は善悪を根源的に一つである(阿弥陀の本願の前に平等)と見る点で共通したものを持ち、人間の計らいを捨てるところに道が顕わになるとするところに共通したものを持つようです。
 老子の悪は善と相対的で、それは善の見失われた欠如感、もしくは善への目ざめを持たない無自覚は状態を呼ぶ言葉にすぎない。善と悪を根源的には一体ととらえます。悪は本質的には“迷い”であり、それ自体として存在するものではなかったようです。キリスト教のような“原罪”の意識はなく、仏教のような宿業の自覚もない。フロイトは、意識と無意識がそれぞれ実体として存在するものと考えたのに対して、アドラーが「意識の欠如状態が無意識」と考えたのに似ているようにも思えます。かなり強引な解釈ですが。臆病と勇気もそのように考えられます。

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