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スレッドNo.134

老子でジャーナル

老子第36章
 之を歙(ちぢ)めんと将欲(ほっ)すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。之これを弱めんと将欲(ほっ)すれば、必ず固くこれを強くす。之を廃せんと将欲(ほっ)すれば、必ず固くこれを興る。之を奪わんと将欲(ほっ)すれば、必ず固くこれに与う。之を微明(びめい)と謂(い)う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強(ごうきょう)に勝つ。魚は淵(ふち)より脱(のが)るべからず。国の利器(りき)は、以(も)って人に示すべからず。

 縮めてやろうと思うときには、しばらく羽を伸ばさせておくに限る。弱くしてやろうと思うときには、しばらく威張らせておくに限る。廃(や)めにしてやろうと思うときには、しばらく勢いづけておくに限る。取り上げてやろうと思うときには、しばらく与えておくに限る。これを底知れぬ英知と言う。すべて柔弱なものは剛強なものに勝つ。魚が淵から脱け出はならぬように、治国の利器は人に示してはならぬのだ。
※浩→天地自然の世界を観ると、大時化(おおしけ)の前には穏やかな凪があり、嵐の前にはひとときの静けさがあるように、前進の前には後退があり、飛躍の前には停滞が、緊張の前には弛緩がある。前進と後退は交互に繰り返し、飛躍と停滞は密接に絡み合い、緊張は弛緩に崩れ落ち、弛緩はまた新しい緊張を準備する。後退や停滞のない前進や飛躍はなく、緊張だけが緊張として無限に持続するということもまたありえない。尺取り虫は伸びるためには屈まねばならず、弓弦(ゆんづる)が張られるためにはしばらく弛めておかねばなりません。
 天地自然の世界の在り方を、己れの在り方の究極的な準拠とする無為の聖人もまた、この交互循環の原則に透徹した目ざめを持つ。彼もまた求心的な動きと遠心的な動きとが交互に循環し、縮小が拡張と、弱化が強化と、奪うことが与えることと総依相対の関係にある自然の世界の理法を達観し、その達観を己れの現実的な営みの中で活用するのです。
 この章は、無為の聖人のこのような自然の理法の活用を、群雄覇を競って弱肉強食する春秋戦国時代の苛烈な現実をふまえつつ、グテイテキナイ政治外交の施策として説明します。ただし、その説明は無為の聖人の“無作為の作為”を説いてあまりにも作為的で、『老子』の哲学の一般的な論述と大きく趣を異にするだけでなく、法家の権謀術数の主張とも多く一致して、古来、法家による後次的な附会の文章とみる見方も強いそうです。
 「縮めてやろうと思うときには、しばらく羽を伸ばさせておく」からの連想で、リラクセーションのやり方を思い出します。「さあ、リラックスしましょう」と言われてもいきなりはできません。そこで、まず前身に力をこめてこわばります。そうしてからいきなり息を抜いて脱力します。そのときリラックスできています。かつて昭和の名優・長谷川一夫さんが宝塚歌劇の演出をしたことがあります。その模様をテレビで見ましたが、広い舞台に愛し合う男女が2人いて、上手下手から中央に向かって走り、思いっきり抱擁するシーンでした。初めは2人のトップスターが上手下手の定位置からいきなり走り出しましたが、長谷川一夫さんは、ストップをかけてそこでアドバイスをしました。走り出す前に、一旦、定位置から逆に少しだけバックして、それから一気に前進するようにと。それでやると中央での抱擁がとてつもなくダイナミックに変化しました。何でもないことのようですが、「前進するには一旦後退せよ」というフレーズにして、人生の智慧にしたいです。

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