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スレッドNo.136

老子でジャーナル

老子第37章
 道の常に無為にして、而も為さざるは無し。侯王(こうおう)、若(も)し能(よ)く之を守れば、万物、将に自(おのずか)ら化せんとす。化して欲作(おこ)らば、吾れ将にこれを鎮むるに無名の樸(ぼく)を以てせんとす。無名の樸は、夫れ亦た将に無欲ならんとす。欲っせずして以って静なれば、天下将に自ら定まらんとす。

 道の本来的な在り方は、人間のような作為がなく、無為でありながら、しかも為さぬということがない。もしも支配者がこの無為の道を守っていけるならば、万物はおのずからその徳に化せられるであろう。もしも万物がその徳に化せられながら、なお欲情を起こすとすれば、私はそれを「無名の樸」─荒木のように名を持たぬ無為の道によって鎮めよう。荒木のように名を持たぬ無為の道であれば、さても万物は無欲に帰するであろう。万物が無欲に帰して心静かであるならば、天下はおのずからにして治まるであろう。

※浩→「上篇・道経」最後の章です。第32章とも共通するところが多いですが、「無為にして為さざるはなし」と、後世、老子哲学のキャッチフレーズのように用いられたこの言葉は、ここに初めて登場しています。
 「無為にして為さざるはなし」という言葉はまず、天地大自然の営みを説明する言葉でした。天地自然の造化の営みは、人間のように特定の目的意識や打算的意図を持って何かをしてやろうと力んだり騒いだりするのではない。雲はただ漂うべくして大空を無心に漂い、風はただそよぐべくして野末に無心にそよぎ、水はただ流れるべくして地上を無心に流れていく。何のためにと問うてみたところで雲は答えず、何の意味かと問うてみたところで風や水は何も語らない。それらの現象は人間を喜ばせるためにあるのでも悲しませるためにあるのでもなく、人間がただ己れの感情を移入して、勝手に喜び悲しんでいるに過ぎない。このことは野を駆ける獣、地にうごめく虫を考えてみるとき一層はっきりするでしょう。獣が何も人間に食われるためにこの世に生まれてきたのではなく、虫は何もこの世を価値ありと見て生きているわけでもない。彼らはただ生まれてきたから生きているだけであり、死が訪れれば、ただ死んでいくだけである。天地大自然の造化の営みは、ただあるがままであり、ただおのずからにしてそうである。しかもそこれは万象は一瞬といえども停止せず、刻々に新しい様相が展開され、絶えず創造的な神秘が繰り広げられていく。老子はこのような天地大自然の造化の営みを「無為にして為さざる無きもの」と理解します。
 また老子は、その無為を「道」─天地大自然の造化の営みの根源にあるもの─に目ざめを持つ人間の在り方として説明します。人間はいろいろな知恵を働かせ、さまざまな理屈をこねて、人類の意志を理想化し、社会の在り方を規範づけます。難しい言語概念をでっちあげて、複雑な技術技巧を考え出し、輝かしい文明を築き上げ、華やかな文化を作り上げます。しかしそれによって、人間がはたしてどれほど幸福になったのでしょうか。あるいはまた人間の生がそのためにどれほどの安らかな充溢を得たのでしょうか。そこに見られるものは虚しい観念の洪水と浅薄な文化の氾濫、安直な文明の怠惰だけではないのか。もしくはまた、人間の清新を白痴化する度外れの多忙と騒々しい雑踏、人間の肉体をミイラ化する蒼白い博識と不毛な饒舌だけではないのか。老子はこれらをすべて生命の衰弱現象と理解し、それを道に目ざめを持たぬがための、“知に驕る無知”として批判します。それで彼は人間が道に目ざめを持って、己れの本来的な在り方に帰れと警告します。本体的な在り方に帰るためには、人間の作為的な営みがすべて一度否定されなければなりません。作為的な営みをすべて一度否定して、道つまり天地造化の営みの根源にあるものに、己れを虚しくして随っていくことができると教えます。そのとき人間は道と1つになり、道の無為がそのまま己れの無為になるとともに、道の為さざることなき自由さがまた、そのまま己れの為さざることなき自由さとなります。つまり、道と1つになった人間─無為の聖人は、人間的な作為を否定する無為によって道の無為と1つになり、道の無為と1つになることによって、道の無不為を己れの無不為として体現します。老子において“無為にして為さざる無し”ということは、天地造化の営みの根源にあるもの─道の在り方であるとともに、道に目ざめを持つ者─無為の聖人の在り方でもありました。
 土着思想という先入観にさいなまれながら、『老子』前篇を読み終えました。後篇は「道徳経」の「徳の部」になって、無為自然の道を体得した、重心を下にした乱世を生き抜く柔軟な処世法が説かれますが、ここで一旦休憩します。

上篇完

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