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スレッドNo.181

アドラー心理学を学ぶと苦しいか?

 例えば、あることをすると、「人の役に立つ」けれども、きっと「人から嫌われる」ときどちらを取りますか?これがアドラー心理学がわれわれに投げかける問いなのです。
 こういう問題提起は、ふだんはあまり考えなくてすみます。「都市文明は無責任を許容しあうためのシステムだ」と私が思うのは、都市では、すべてが微温的にできていて、こういう「あれかこれか」の問いに出会わなくてもすむようになっているからです。われわれは、おそらくその目的で都市を作ったのでしょう。都市では、みんなで快適な日常の中に埋没して、自分の醜さも人の醜さも見なくてすみます。
 アドラー心理学を学び始めると、その人固有の「あれかこれか」の部分はひとまずおいておいて、周辺にある日常的な無難な部分から、さまざまの問題が解決してゆきます。そうすると「楽になった」と感じることができるようになります。しかし数年すると、どうしても極限的な「あれかこれか」の核心部分だけが残ってしまうことになり、縁に触れてそれが露出してしまうことがあるのです。
 「自分が楽であること」と「人を楽にすること」とが矛盾しないうちはいいのです。「人を楽にすること」は、すなわち「自分を楽にすること」ですから、どんな偽善者でもどんなエゴイストでも利他的にふるまえます。しかし、この2つが鋭く矛盾するときに、「人を楽にすること」を選ぶことは、ものすごいガッツがいります。そのような場面で自分を捨てることができる人になることは、決して楽なことではありません。私は、それを「苦しい」と言っているのです。
 都市を離れ、その便利さを故意に捨てて、お遍路さんに行ったり山歩きに行ったりすると、小さな極限状態が絶えず起こります。そこで、共同体の側を選択し続け、自分の側を捨て続けることを学ぼうとしているのですが、それは私にとってはいつも大変な試練です。アドラー心理学を学ばなければ、自分の側を選んで、しかもそれを正当化するための言い訳をして、その言い訳を自分でも信じ込んで、幸せに生きられたでしょうがね。(野田俊作)

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