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スレッドNo.211

論語でジャーナル’24

 子夏(しか)曰く、賢を賢として色に易(か)え、父母に事(つか)えて能(よ)くその力をつくし、君に事えて能くその身を致し、朋友と交わるに、言いて信あらば、未だ学ばずと曰うと雖(い)へども、吾は必ず之を学びたりと謂(い)わん。

 人は、美人を好むと同じように賢人を尊敬しないといけない。父母につかえて力の限りを尽くし、君主につかえて一身を捧げ(命まで投げ出すことではない。生命と身体を軽々しく犠牲にするのは無教養な人間のすること。職務を愛することわが身を愛するごとくあれという意味か)、友だちと交わって、一度言ったことを決してたがえない。そういう条件を備えた人なら、たとえ本を読んで正式に学問をしたことはなくても、私はこれこそ「学者」だと言いたい。

※浩→子夏は曾子とともに年少の秀才です。曾子は孔子の祖国・魯に残って先生の道を継ぎましたが、子夏は西の魏におもむき、文侯の顧問となりました。
 「賢を賢として色に易え」は、論語の中で最も異説が多く最も難解な句です。「賢人を美人のごとく尊敬し」「賢人に遭遇したらハッと顔色を易(か)えるくらい尊敬し」「賢人は尊敬し美人は軽蔑し」……と、解釈も多様です。
 「賢人を尊敬する」で私がまず思い出すのは、出身校・丸の内中学校(現在は都心部の人口減のため廃校)の高崎毅先生です。先生は、大学卒業直後のフレッシュマンで、パリッとしたスーツ姿が素晴らしく、インテリでいて気取ることなく、しかも子ども好きで、当時人気ナンバーワンの先生だったと思います。私はこの先生のカッコ良さに憧れて社会科の教師になりました。
 子どものころは、衣類はだいたい兄のお下がりを着ていました。5歳上の兄は10歳で亡くなりましたが、当時(昭和20年代)は、衣類はいたんだらつぎはぎをして着るのが当たり前でした。それでも、きちんと洗濯して清潔なものを親が着せてくれていました。高校生くらいになると、カッターシャツは親戚のお兄さんのお下がりを着ていました。買いたての新品を着ることはまずありませんでした。大学を出て、初出勤するときにスーツは月賦で買いました。やっと自分のお金で買えた喜びはひとしおでした。
 丸の内中学の卒業アルバムを今も大切に保存してあります。当時この学校は1学年9クラスのマンモス校でした。3年生のときのクラスはC組で62人のマンモス・クラスでした。卒業アルバムといっても、今と違って超シンプルのオールモノクロ、ページ数もほんのわずかです。先生方のページが1ページと9クラスの生徒の集合写真のそれだけです。部活動も修学旅行も載っていません。最近の派手なのとは違います。紅白歌合戦が昔と違ってド派手になったように、卒業アルバムもオールカラーでどんどん派手になってきました。アルバムに懐かしい顔をたくさん発見しました。1年生のときの担任は串田義夫(?)先生で、やはり社会科の先生でした。若い高崎先生と違って普通のおじさんという感じでした。わが家では私の進路に関して、父親の希望は倉敷工業高校電気科でしたが、母は「家には財産がないから学力だけで就職できる公務員か教師がいい」と大学進学を希望していて、夫婦で意見が対立していました。アドラー心理学で言う家族価値が、「学力」だったわけです。子どもは態度決定しないといけません。保護者懇談会で担任の串田先生が、「大森君は成績が良いから(学年で常に2番か3番でした)ぜひ大学へやりなさい」とおっしゃったそうで、母は「うちはとても学資を出す余裕がない」と言うと、先生は「奨学金を借ればいい。教員になれば返済を免除されるし、家庭教師などのアルバイトもできるから大丈夫です」と応援してくださいました。結局、母は父親を説得したか無視したかで、私は普通科進学校・操山高校へ進学して、無事、岡山大学教育学部に合格することができました。
 最近では、賢人というと偉大な野田俊作先生と岸見一郎先生です。このお二方と同じ時代に生きていることに無上の喜びを感じています(残念なことに野田先生は2020年12月に他界されました)。
 野田先生のご両親とのかかわりは、「父母につかえて力の限りを尽くし」、そのまんまでした。「友だちと交わって、一度言ったことを決してたがえない」ようにしっかり心がけていきたいです。
 「そういう条件を備えた人なら、たとえ本を読んで正式に学問をしたことはなくても、私はこれこそ「学者」だと言いたい」はどうでしょうか。アドラー心理学を学ぶ人を“アドレリアン”と呼びますが、自信をもって自分をアドレリアンと呼べるように精進していきたいです。

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