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スレッドNo.215

論語でジャーナル’24

 曾子(そうし)曰く、終わりを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰せん。

 為政者が、人生の終わりである死、特に父母の死に対する儀式、つまり葬式を慎重に大切にし、何代も前の自分からは遠い先祖をいつまでも追慕し、祭礼を鄭重にするならば、一般の人民の行為も篤実・誠実な方向に落ち着くであろう。

※浩→為政者が人民のモデルとなるべきことを、ここでは先祖を追慕する儀式や親の葬礼のあり方で述べています。当時は階級社会で、為政者に比べると人民は葬式も先祖祭りも質素だったでしょうが、それでも為政者が儀式を慎重に行っていれば、一般人の風俗もそれに応じて、質素は質素ながら美しいものとなる、ということでしょう。
 曾子は孔子の弟子のうちでも、血族間の善意を特に重視する人でした。現代の私たちの世代は、まだ先祖供養とか墓参りを大事にしています。次の世代はどうなっているでしょうか、いささか怪しい感じもします。
 私の母は、実家と嫁ぎ先と両方のお墓に厳重にお参りしていました。子どもの私たちも両方へ一緒について行きました。母の実家のお墓は岡山市(中区)東山の墓地にあり、嫁ぎ先の(北区)栢谷の墓は家のそばの山を少し登ったところにありました。父親は信仰心がなかったのかどうかわかりませんが、母子がお墓の山へ登ろうとしていると、「仏さんはどこにでもいるからここから拝んでも同じだ」と言って、私たちと一緒に登ったことは一度もありませんでした。まあ理屈は通っています。仏様は偏在されるという説もありますし、念仏は心で唱えますから。母は毎朝、お仏壇へご飯とお茶をお供えしていました。すると父は、「生きている者が先じゃ」と、罰当たりなことも言っていましたが、これも一理ありますし、父の死後は、母がときどきお仏壇の朝のお供えより先に子どもたちに食べさせて、「お父ちゃんは『生きている者が先じゃ』と言っていたからいいの」と笑っていました。そのおかげで私も現在父のお墓へ行けないときは、自宅の仏前で合掌しています。父の考えはまあ「合理主義」なんでしょうか。妹が帰省しているとき、お仏壇へのお供えを後回しにして私たちが先に食事をしていると、「お父ちゃんは生きている者優先だったね」と大笑いしています。甥や姪たち(妹の子)は「おばあちゃん子」だったので、今でもそれぞれ都合の良いときにお参りしてくれています。親のする子とを見て子どもは育っています。
 私はお盆とお正月には必ず妹と一緒に墓参りします。帰りには(北区)横井にある「夜寿司」で豪華なお昼ご飯をいただくのが定番でしたが、最近は駐車場が満車になることが多かったです。待ち時間をたずねると、「予約優先です」と言われて、それ以来そこは利用していません。その後は、美味しいものを買い込んで自宅でゆっくりいただくようになりました。2020年からコロナ禍のため妹は帰省しません。コロナももうそろそろ全滅してもいいのに、最近あちこちでまた増加傾向のようで、学校が休校になっています。私が利用する理髪店の親子が感染して、そのため10日に予約していたのがキャンセルになりました。1週間後で再予約できました。

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