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スレッドNo.219

論語でジャーナル’24

 子曰く、父いませばその志(こころざし)を観(み)、父没すればその行いを観る。三年父の道を改むるなきは、孝と謂うべし。

 (たぶん弟子から「孝子とはどんなのか」聞かれたのでしょう。)
 先生はおっしゃった。子は父の在世中は、父が何を考えているかをよく観察しなければならない。また父の他界ののちは、父の一生の仕事をよく観察しなけらばならない。そうして、三年間父の道を改めない者こそ孝子と判断してよい。

※浩→「考と謂うべし」の「謂う」は軽い「いう」ではく、評価判断の意図を含めた重い「いう」です。
 私の父は1965年に55歳で他界しました。息子の私から見て夫婦仲は良くないようでした。もしかしたら、高等女学校卒で父より高学歴だった母には口では勝てなかったのかもしれません。何かで行き詰まると言葉て応答できなくて、結局、食器とか家具とかを投げたり壊したりすることで対抗していたでしょう。それでも暴れたり、直接人に暴力をふるうことはけっしてありませんでした。限度をきちんとわきまえていました。大声で怒鳴ったり、食器類が台所に散乱することはありましたが、そういうときは母と子どもたちは、徒歩数分の本家に避難していました。私は、父の機嫌が直るまでそのまま何日間か本家に泊めてもらうこともありました。ご飯もそこで本家の家族と一緒にいただきました。本家は大人数で、広い広い土間の台所に大きなテーブルが置いてあって、当時としては珍しく椅子に座って食事をしていました。本家とわが家の関係は、本家の家長がうちの父の長兄で、私の伯父に当たります。その伯父には娘が2人いて、1人は嫁ぎ、1人が養子さんを向かえて家を継ぎました。その家を継いだ娘が私のいとこです。いとこ夫婦にはたくさんの子どもがいて、女、女、女、男、女、女、女の順でした。このうち男の子が私と同じ年同学年でした。この人がちょうど私にとって「いとこ」に相当しそうですが、その母親が「いとこ」ですから、彼は「いとこ半」になります。その男の子・Yちゃんの部屋で一緒に寝起きしていました。Yちゃんは、とても勇ましい男の子で、いつも棒を振り回しながら登下校していました。私は腰巾着みたいにくっついていました。父はその光景を見て、「子分みたいなザマをするな!」と怒っていましたが、Yちゃんはほんとに義侠心厚く、私とはとても仲良しでした。「強くて安全なものに頼る」私のライフスタイルができた一因かもしれません。小学校の通学路は結構距離があって、途中に悪ガキがいる地域がありましたが、Yちゃんと一緒だと決していじめられることはありませんでした。このYちゃんは大きくなるにつれてますます心のやさしい人になりました。私が岡山工業高校に在職中、息子さんが電子科(現・情報技術科)に入学してきたときはびっくりしました。Yちゃんはわが父と同じように器用な人で、子どものころからハンダごてを巧みに使って自分でラジオを組み立てたりしていました。私は手先はきわめて不器用です。今もそうです。父は公民館の看板を書いたり、不要になった納屋をもらってきて、自力でわが家の庭先に子ども用の勉強部屋を建ててくれたりしました。
 子どものころ、父には近づきがたかく、いつも母親にくっついていましたが、アドラーを学んだおかげで、今は父の素晴らしい点がいっぱい思い出されます。
 相棒・K先生のお父上は、90歳を越えられてご健在で、最近まで地域の名士として講演活動などなさっていました。講演内容の資料とかはK先生が提供してあげているそうです。母上への孝養も尽くされ、帰省のときは、野田先生と同じように、高校時代の食欲に合わせてごちそうを作ってくださる母親の期待を裏切らないように、お腹を空かせて帰られるそうです。たっぷりご馳走をいただいて、岡山へ戻ると体重が数キロ増えています。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年07月19日 07:24)

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