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スレッドNo.223

論語でジャーナル’24

 有子曰く、信、義に近づけば、言復(ふ)むべきなり。恭、礼に近づけば、恥辱に遠ざかるなり。因(よ)ること、その親(しん)を失わざれば、また宗(むね)とすべきなり。

 有子が言いました。「信(=約束をたがえぬこと)、それは無条件に道徳でない。それが、義(=正しさ)に近づいた場合に、はじめて約束の言葉が吟味に堪え、実行に堪える。また、恭(=うやうやしさ)ということは、無条件に賞賛されない。礼の掟に接近した恭しさである場合に、はじめて恥辱から遠ざかりうる」。

※浩→また弟子(有若)の登場です。この一節も難解で、他の読み方もあります。
 別の読み方:信は義に近し、言復(ふ)むべければなり。恭は礼に近し、恥辱に遠ざかればなり。
 信と恭とは、義そのもの礼そのものではない。しかしそれらは近いものではある。何となれば、信であれば言葉は頼りになり、恭であれば恥辱を受ける危険が少ないから。
 有子は、「信」「恭」「因(姻)」という徳が成立する根源、つまり「本(もと)」を考え、その徳の実現する限界を設定しました。孔子の弟子の中ではきわめて論理的であったそうで、同輩から反感を持たれるもとにもなったようですが、この精神は、子思~孟子の「性善説」の理論に発展していきます。
 少し前にも、「君子は本(もと)を務む。本立ちて道生ず」とありました。カウンセリングやその他の対人関係で行き詰まったときは、対人関係の基本原則を思い出すように、つねづね野田俊作先生から教わりました。アドラーの高弟・ドライカースは「良い人間関係」の4つの基本原則を次のように示しました。
 1)相互尊敬 2)相互信頼 3)目標の一致 4)協力
 まず1)2)が大前提です。相手への尊敬・信頼は十分であったか?どこかで自分の優越性を鼻にかけて、相手を軽視していなかったか?相手に不信感を持って「どうせ言ってもわかりっこない」とか決めつけていなかったか?無自覚に強引に自分の思う方向へ相手を引っ張ろうとしていなかったか?
 コミュニケーションがこじれるのは双方の目標が一致していないからです。野田先生はよく「すりあわせ」とおっしゃいました。双方の目ざす目標が合理的で実現可能かどうかを検討して、不合理で実現不可能なものを捨てて、合理的かつ達成可能な目標を一致して決めることができたら、その目標に向かって「協力」していくことができます。
 安っぽいヒューマニズムで不遜にも人様を援助しようとすれば結局行き詰まり、途中で投げ出すことにもなりかねないでしょう。これでは「縦の関係」です。「横の関係」で、目標が一致していないと、真の援助に向かって進むことはできないです。どこまでいっても、要修業・要鍛錬です。

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