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スレッドNo.237

論語でジャーナル’24

 子曰く、吾(われ)十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順(したが)う、七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)を踰(こ)えず。

 先生が言われた。「私は十五歳で学問に志し、三十歳で一本立ちとなり、四十歳で迷いがなくなり、五十歳で天から与えられた使命を悟り、六十歳で人の言葉を素直に聞けるようになり、七十歳で自分の思うままに行っても行き過ぎがなくなった。

※浩→あまりにも有名な章です。
 万事控え目で、反省心が強く、自己を誇らない孔子が、いつも苦難に満ち、試練にさらされて成長してきた生涯を、無限の感慨をもってふりかえっている「自叙伝」となっています。
 吉川幸次郎先生の解説によれば、幼年期の教育は、「六年にして之に数と方の名を教え、十年にして書計を学び、十三年にして楽をまなび」と、それまでに学びを基礎に、十五になって学問をすべく決心したということです。それはおそらく、文化によって人間に貢献するということだったのでしょう。三十歳でその学問の基礎ができあがり、四十歳で、自己の学問に対して自信を得、自己の向かう方向が、人間の生活として妥当なものであることを確信でき、五十歳で、文化のために努力することが、天から与えられた運命であることを感知しえた。六十歳で、自己と異なる説を聞いても、反感を感じなくなった。それらの説にも存在理由があることを感得し、さらに人間の生活の多様性を認識し、むやみに反撥しないだけの心の余裕を得た。七十歳には、自己の行動に真の自由を得た。欲望のままに動いても、人間の法則を越えないという境地に達しました。
 私の場合は80歳を過ぎても「心の欲するところに従いて…」どころか、しょっちゅう「矩」を越えそうになります。美酒とともにご馳走いただくときは、つい油断して限度を超えてあとで後悔することもありました。野田先生は食べ物にはつい手が出てしまう、とおっしゃっていましたから、先生がおっしゃるように「業」なのかもしれません。それでも「見栄の大森」としては、食べ過ぎて体型が崩れるのを極端に嫌いますから、見栄のためにある程度は制御できそうです。野田先生は、前世は「餓鬼」だとおっしゃっていましたが、私は多分「役者」ではないかと思います。小学校3年生のとき、今で言う文化祭の演劇で「泣いた赤鬼」をやったとき、主役の赤鬼をしました。前年までは、その他大勢の「ウサギ役」だったのが、3年生で主役に抜擢されました。衣装に赤い服を着るので、妹の赤いセーターを借りました。これで良かったのですが、裾のほうに刺繍の小さな模様があって、「無地のほうがいいのに」と、完全でないことを気にしていたようです。「小さなことが気になる、私の悪くクセ」と、まるで「相棒」の杉下右京さんみたいです。客席では母がしっかり観てくれていてました。そして高校では演劇部でした。2年生の文化祭の出し物は『盆栽先生』で、ここでは準主役の息子役でした。さらに、岡山工業高校在職中には文化祭の職員劇で二度、これまた主役を演じさせていただきました。やはり前世は「役者」だったのでしょう。
 野田先生がカウンセラー養成講座などで先生自作の「勇気づけの歌」を使われます。私はすでに完全に暗唱していて、いろいろな機会に利用しています。完全な七五調でない部分があって、私は自分が覚えやすいように、先生には無断で「七五調」に改変してしまいました。歌舞伎の長い台詞でも「七五調」だと役者が覚えやすいです。河竹黙阿弥の「三人吉三」の「大川端」お嬢吉三の台詞など絶好調です。
♪ 月も朧(おぼろ)に白魚(しらうお)の、篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに、心持よくうかうかと、浮かれ烏(がらす)のたゞ一羽、塒(ねぐら)へ帰(けえ)る川端で、棹(さお)の雫(しずく)か濡手(ぬれて)で泡、思いがけなく手に入る百両、(と、懐の財布を出し、にったり思入れ。このとき上手にて、「厄払(やくばら)いの声してお厄払(はら)いましょう、厄落とし厄落とし」と呼ばわる声)
 ほんに今夜は節分か、西の海より川のなか、落ちた夜鷹(よたか)は厄落とし、豆沢山(まめだくさん)に一文の、銭(ぜに)と違って金包み、こいつあ春から、延喜(えんぎ)がいゝわえ。

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