論語でジャーナル’24
孟武伯、孝を問う。子曰く、父母にはその疾(やまい)をこれを憂えよ。
孟武伯殿が孝行の心がけをたずねられた。先生は言われた。「父母にはそのご病気のことだけ気におかけなさいませ」。
※浩→孟武伯は前文の孟懿子の子です。おそらく孟懿子は病身で、生前に武伯が孝行のことをたずねたら、病身の父のことだから「その体のことを心配してあげなさい」と孔子が答えたのでしょう。
私の兄(5歳上)は10歳のとき病死したそうです。そのため母は次の男子である私への期待が大きくなったのでしょう。一般に親は死んだ子を理想化して、何かあるたびに、「お兄ちゃんが生きていたら」などと言いそうですが、わが家ではそういうことはありませんでした。私にそれほど問題がなかもしれません。父親はもしかしたら、兄への期待が大きくて私には失望したのかもしれません。そのためかどうか、私は父に親しめなくて母親べったりだったようです。何かといえば「おかあちゃん、おかあちゃん」と言う子でした。それで「安全なスペースにくつろぐ」のが大好きというライフスタイルもできたのでしょう。
母は、伝記かドラマになっていいほどの大物だったと思います。NHKの朝ドラ『あぐり』の主人公「あぐり」(吉行あぐりさん)や陸上選手の人見絹枝さんと同じ岡山第一女学校の出身です。母はバレーボール部で、人見さんは陸上競技部で、同じ場所で合宿したことがあると母から聞いています。その合宿中に、人見さんが“おなら”をしたことがあって、「人見絹枝放屁事件」として長く語り継がれていたそうで、私と妹は何度もその話を聞きました。
母はおとなしそうに見えますが、文武両道の万能選手でした。スポーツはもちろんバレーボールが得意で、料理も裁縫も大工仕事も庭仕事も何でも楽々とこなしていました。父親も手先の器用な人だったのに、私ひとり不器用なのが不思議です。妹は器用で、何でも母と同じようにできています。小学校の工作の時間に「ベル」を作ることがありました。先生に指導されながら、手順どおりに組み立てるのですが、振動する小さな振り子を取り付けるとき、バネの調整がどうしてもうまくできなくて、私の作品はとうとう鳴らなかったです。“外傷体験”です(笑)。絵は中学までは得意ではないにしても、描くのは好きでした。一度だけ、私がうまく描けないと嘆いていたら、母が見事な独楽の絵を描いてくれて、私がそれに署名して提出すると、先生はすぐに×印を付けて返してきました。バレるんですね、インチキは。高校では芸術は音楽を選択して、だんだん絵画からは遠ざかりました。演劇部に入って、体による演技や口でのおしゃべりの能力を高めることで劣等感を補償していって、今日に至ったのでしょう。今も健在です。