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スレッドNo.277

論語でジャーナル’24

 子曰く、その鬼(き)にあらずして祭るは諂う(へつらう)なり。義を見て為(せ)ざるは勇なきなり。

 先生が言われた。「わが祖先として祭るべきでない神を祭るのは、卑屈なことである。人間の義務として果たさねばならない場合に尻込みして果たさないのは、勇気を欠くことである。

※浩→「鬼」は死んだ祖先の霊魂のことです。古代の家族的宗教では、死んだ祖先の霊魂は神となり、その血族の子孫の祭祀を受けることによって他界で生き続けると考えられていました。血族でない者は、決して祭にあずかることはできない。日本で政治家が靖国神社に参ると、中国の人が反発するのは、こういう文化的な背景の違いからでしょうか。例えば、大臣が靖国詣でをすると、中国の人は、その大臣の先祖参りをしたと考えるのでしょうか。わが国では、よそのおうちの人であろうと、戦争で亡くなった英霊をお祭しても、違和感を感じないです。刑事ドラマを見ていると、刑事が殺人現場に出向いて死体に対面すると、その死者がどんな人であろうと、必ず合掌します。「悪い人でも死にゃ仏」といのが日本人のやさしさでしょうか。
 春秋時代の魯には、新しい神の霊を報ずる女巫(じょふ)の新興宗教が流行していました。孔子のこの言葉は、これを排斥しようとするものです。次の「義を見て……」との続き具合がよくわかりません。この「義」とは、時の権力者が信仰しているからといって、祭るべきでない新興宗教を祭ってはならない、そういうことが義なのであり、権力者の意志に反して新興宗教を断固として排斥することが大変勇気を要したからだと、「世界の名著」では解説しています。
 「義を見て為ざるは勇なきなり」は大変有名なフレーズですが、出所はここだったことがわかりました。一般には、オリジナルとはかなり違った意味で使われているようですが、「勇」はアドラー心理学の「勇気」と縁があるようです。「義」のほうは少し慎重に解釈して、ただ「正義」としないで、「建設的なこと」とすると、「共同体に対して建設的なことに向かってそれに取り組まないのは勇気がない」と解釈できます。無理やりこじつけましたが、めでたく決まりました。(「為政篇」完)

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