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スレッドNo.283

論語でジャーナル’24

 子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如何(いかん)せん。人にして仁ならずんば、楽(がく)を如何せん。

 先生がこうおっしゃった。「人として思いやり(仁)のないものが、礼を習得してどうなるのだろう(いや、何にもならない)。人として思いやり(仁)のないものが、楽を歌って何になるのだろう(いや、何にもならない)」。

※浩→孔子にとって最大の徳はあくまで「仁」であり、仁とは、他者に対する人間としての情愛、家族に対する自然な思いやりのことです。他者を大切にして思いやるという「仁」に欠けたものが、いくら形式的な礼節を学んでも何にもならないし、儀礼に必要な楽(歌)を上達させても何にもならない。徳治政治に必要不可欠な「礼楽の道」は、親愛の情を寄せる他者に対して、秩序や礼儀を効率良く伝えるための方法・手段・手続きで、他者を大切にする「仁」のない者がいくら見せかけだけの礼楽を習得しても無意味だということです。
 吉川幸次郎先生の解説では、「楽(がく)」は広く音楽一般であるが、概ね「礼」の儀式を行う際に演奏される音楽を意識しますから、大きくくくれば「楽」も「礼」に含まれます。ここのように「礼」と「楽」を2つの概念として併称することもしばしばあるそうで、どちらも人間の文化の表現ですが、併称された場合は、「礼」は人間の秩序、敬意、厳粛さの表現で、「楽」は人間の調和の表現であるとされます。古い時代には、愛情を持たない人間は礼楽を担当することができない」という意味に解釈していたそうですが、吉川先生は、この説を廃して、「人間の文化の表現として、最も重要な礼と楽、その根底となるものは、「仁」、すなわち人間の愛情に他ならない。われわれ人間が、もし人間らしい愛情を持たないとすれば、あの大切な礼はどうなる。楽はどうなる。礼も楽も見せかけの文化になってしまって、礼が礼として持つべき人間的内容、楽が楽として持つべきに人間的な内容は喪われ、空虚なものになってしまうであろう」というように解釈されました。私も吉川先生の解釈の賛成派です。プーチン大統領やネタニアフ首相や金正恩さんにも「人間としての愛情」はあるのでしょう。ただその適用範囲がきわめて狭く、自分の身内や自国というごく近い存在に限られているのでしょう。「共同体感覚」からほど遠い「自己執着」に近いのではないでしょうか。「他者への関心」と「他者への関心への関心」とは違います。どう違うか考えていると、夜眠れなくなりそうです。ついでに「共通感覚」と「共同体感覚」の違いも考えてみましょう。

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